通〜ぶりズム

街を通ぶって歩く、通〜ぶりストたちによるブログです

ビジュアルのちから

 コロナ禍以前の歌舞伎座の幕見席には、外国人観光客とみられる人々がちらほらいた。幕見席とは、歌舞伎の好きな幕だけを1000円程度で見ることができる席だ。当日券のみの販売で、気軽に歌舞伎を楽しめる席として人気が高い。
 日本人であっても、歌舞伎の台詞を全てそのまま理解できる人は少ないだろう。独特の調子に古風な言葉。事前にあらすじを知っておかないと、物語を理解するのは厳しい。ましてや外国人観光客は、いくら字幕が用意されているとはいえ、それを楽しむことは難しいのでは、と考えた。


 そのとき、3年程前に、ウィーンの国立歌劇場で蝶々夫人を観劇したことを思い出した(当日たまたま取れたチケットだったため、あらすじを何も知らない状態だった)。舞台上では、和服に身を包んだ人々が、イタリア語の歌を歌い上げていた。知らない言語の歌を楽しむことは、字幕が用意されていても難しかった。けれども、言葉が分からなくても、舞台のビジュアルを楽しむことはできた。白い衣装に身を包んだ2人は結婚式の場面を示し、豪華な劇場で派手な衣装を纏う役者は、それだけで見る人の目を引く。途中から字幕を見るのをやめて、煌びやかな舞台をじっと見ていたことを思い出した。
 幕見席の外国人観光客も、あのときの私と同じだったのではないだろうか。異文化の人々とは言語の壁がある。しかし、歌舞伎やオペラのように特徴的なビジュアルは、彼らと共有することができる。言語は違えど同じ演劇を見ているのだ。受け取り方は人によって異なるかもしれないが、ビジュアルが与える強烈なインパクトには、言語の壁を破壊する勢いがある。


 江戸時代に誕生した歌舞伎が大衆文化として広く支持を得た理由は、そのビジュアルにあるのだろう。言語の壁は、識字率だったり、言語の種類だったり、時代によって移り変わっている。ひと目見て「歌舞伎」だと分かるビジュアルこそ、現代に至るまで歌舞伎が支持を集めている理由なのだろう。

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歌舞伎座


 

「新しい文化」を食べてみる

 韓国にはチャジャンミョン(漢字表記:炸醬麵、ハングル:짜장면)という麺料理がある。韓国でチャジャンミョンと言えば中華料理に分類され、どの中華料理屋さんに入っても必ずあるメニューと言ってもいいほど定番の中華料理として有名だ。このように韓国で広く中華料理としての認識が強いチャジャンミョンだが、実際には一般的に知られている中華料理のジャージャー麵とは区別される。

 

 

 チャジャンミョンは、チュンジャンと呼ばれる黒味噌を油で炒め、その油で野菜やお肉を炒めた後、片栗粉を水で溶いて絡め麺に乗せた料理だ。1883年に仁川港が開港されると、多くの山東半島の労働者たちが韓国にやって来て、彼らが故郷で食べていたジャージャー麵を夜食として韓国でも再現して食べるようになった。そんな中、仁川にチャイナタウンが成り立つと共に韓国に定住した華僑は、自分たちが故郷で食べていたジャージャー麵に野菜やお肉を入れ、韓国人の好みに合うものを作り上げた。油気を減らし、塩辛い味付けのジャージャー麵とは異なり甘い味付けをすることで、韓国人の口に合う現在のチャジャンミョンが誕生した。

 

 

 これと似た事例として、日本の長崎ちゃんぽんが挙げられる。明治中期、長崎市に現存する中華料理店の初代店主が、当時日本に訪れていた食べ盛りの中国人留学生に、安くて栄養たっぷりな料理をと考え作ったのがちゃんぽんの始まりであり、たちまち長崎の中華街に広まっていった。ちゃんぽんのルーツは福建省の湯肉絲麺(とんにいしいめん)である。湯肉絲麺は麺を主体として豚肉、椎茸、タケノコ、ネギなどを入れたあっさりとしたスープだが、中華料理店の店主がこれにボリュームをつけて濃いめのスープ、豊富な具、独自のコシのある麺を日本風にアレンジしたものが、現在日本人に多く好まれている長崎ちゃんぽんだ。

 

 

 韓国のチャジャンミョン、日本の長崎ちゃんぽん、この二つの料理に共通する点は、もとは他の国や文化の料理が、現地の人々の好みに合わせアレンジされ誕生した料理、つまりローカライズされた料理であるという点だ。わたしたちが普段何気なく食べているその料理も、ルーツをたどればわたしたちの好みに合わせてローカライズされ、新たに生まれたものかもしれない。交流が途絶えられたコロナ禍のいま、わたしたちは「食」を通じることで異文化交流を行うことができるのではないだろうか。文化と文化が出会い誕生した「新しい文化」を食べてみることで。

 

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仁川チャイナタウンで食べたチャジャンミョン

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チャジャンミョン博物館にある卒業式にチャジャンミョンを食べる人の模型

 

“なんちゃって”が地球を救う

 

最近の地球は機嫌が悪いと思う。

なかなか雨が降らなかったり、と、思えば雨が長引いたり、今年の冬はあまり寒くないと思っていたら、つい最近大雪が降って何百人もの人が足止めされたりしていた。

私はまだ生きてきて20年ちょっとしか経っていないが、幼い時は四季が今よりもしっかりと感じられてように思う。春は暖かくぽかぽかと。そして雨が降り、7月には止んで暑い夏が始まる。9月ごろから少しずつ過ごしやすい気温と風が吹き、木々が赤や黄色に色づき、11月になったら衣替えをして冬支度。そして3月になったら暖かい日があったり寒い日になったりしていた。

しかし今では夏と冬しか存在しないのでは?と思うぐらいに季節の分かれ目を感じにくくなっている。

 

この地球温暖化と言わざるを得ない状況を少しでも緩和する手段として、植物性食品を積極的に摂取する生活をやってみないか?

 

動物性食品を一切摂取しない完全菜食主義として知られるヴィーガン

2018年にイギリス・オックスフォード大学が中心となって行った研究では、「ベジタリアンの食事にすると63%、ヴィーガンの食事にすると70%の温室効果ガスを削減することができると発表されている。[1]

環境から考えると、ヴィーガンになることが理想的ではあるが、ヴィーガンになれないなら、肉や魚だけを食べないベジタリアンになるという選択肢もある。経済的、時間的、そして今までの生活を変える難しさがある。

 

では、牛乳を豆乳に代えてみたり、挽肉を使う料理を大豆ミートや豆腐に代えたりするのはどうだろう。自分にできることから少しだけでも”なんちゃってヴィーガン”生活を取り入れてみてほしい。このような小さな心がけを一人一人が行うだけでも、未来への大きな変化になっていく。

 

地球の機嫌を直すのは、私たちだ。

 

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これは恵比寿のヴィーガンカフェで食べたヴィーガンハンバーガーである。

 

[1] OXFORD MARTIN SCHOOL 「Plant-based diets could save millions of lives and dramatically cut greenhouse gas emissions」https://www.oxfordmartin.ox.ac.uk/news/201603-plant-based-diets/(2021年1月21日閲覧)

 

同じ窯の飯を、食えないひと

「同じ釜の飯を、食えない人」


一昨年の秋、しっかり丸くなった自分の顔を鏡で見て渋々ダイエットを決意した。

その頃我が家では、一週間に1日水のみで生活するという「月曜断食」なるものが流行しており、私も母と一緒に週一回の断食に挑戦した。

軽い気持ちで始めたが、これが本当につらかった。空腹感そのものもさることながら、「食事」を断つことは、想像以上に色んなものを断つことだったからだ。

友達とのランチも、サークルの飲み会も、授業後に行くカフェゴトーも、ない。一切ないのだ。自分は食べないことを前提に飲み会に参加したこともあったが、なんだか疎外感を感じて楽しめなかった。

私は悟った。人間は、食べないと、暇だ。暇で、とてつもなく、孤独だ。

当然ダイエットは志半ばにして終了を迎えた。


先日、一冊の本をめくった。潰瘍性大腸炎(先日退任した安倍前首相と同じ病気)を患った著者の闘病エッセイだ。

潰瘍性大腸炎の患者は、食べられるものが非常に限られている。もしも口にしてしまったら、最悪死に至る食品もある。口にしたら大変なことになるから食べられないのに、周囲の人からは「少しくらいいいでしょ」「ちょっとだけでも食べてみて」としつこく勧められる。これが一生続くのだ。健常者社会には「食べることは受け入れること」だという文化があって、「食べないこと」「食べられないこと」が、人間関係に大きな影響を及ぼすと著者は記す。

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頭木 弘樹『食べることと出すこと (シリーズ ケアをひらく)』)


「同じ釜の飯を食う」という言葉がある。同じものを食べることで深まる絆は確かにある。食事を共にするとき、人間は食材以外にも感情を、連体感を、共有する。そうやって食文化は育まれてきた。

しかし、それが全てであっていいのか。ダイエットはやめられるが、難病は一生続く。「食事を共にできないこと」が必要以上の阻害を生む社会に、健常者は気付くことが出来ない。

コロナ下、「一緒に食事をとる」ことはリスクとなった。「同じものを同じ場所で食べる」こと以外にも、人間が繋がっていられる方法は、必ずあるはずだ。



コロナと地元の飲食店

 東京から遠く離れた私の実家の近くには、かつて「キリシュナ」という、南インド料理屋があった。2013年に私の町内に移転してきたのだが、当時から本格的な南インド料理が味わえると評判の店だった。

 シェフは、タミル出身のエドワードさん。家族でインドからこっちに引っ越してきたという。

「もう一度あのビリヤニが食べたい」と思いながらなかなか行けず、

都心のコロナの影響から実家に逃げ込んできたときにはもう、閉店してしまっていた。

 

 その後、エドワードさん一家は8月にインドへ戻る予定だったらしいが、それも叶わなかったという。これはエドワードさんの家族と関わりのある、私の両親を通じて伺った話だ。

 

 しばらくしてから2度目の緊急事態宣言が発布され、対象外であるが地元でも緊張感が増してきた。「コロナは東京のものだと思っていたが、すぐ隣にいるかもしれないと思うようになってきた。」と地元ニュースでインタビューを受ける年配の方が言う。私はエドワードさん一家はちゃんと生活できているのだろうか、と心配になっていた。これも両親を通じて伺ったが、最近はアルバイトをしているらしい。今年の某月にインドに帰れるよう、準備を整えているという。

 

 飲食業はますます苦境に立たされている。その中でも、エドワードさんのように飲食店に携わる外国人は数多い。日本で故郷の味を広めようと活躍していた外国人がその機会を失い、自国にも帰れない状況が続いているのは心苦しい状況だ。

 

 「食」は人間の生活に欠かせないもの。だからこそ、そこにはそれぞれの文化の特色が、わかりやすく反映される。以前のように、「食」を通じて異文化交流が気軽にてきる世が待ち遠しいものだ。

 

 

同じ博物館に5回行ってみたら

同じ博物館に2年半で5回訪れるというのは、かなりのマニアに相当するのだろうか。タイトル通り、私が5回も見学したのはベトナムホーチミンにある戦争証跡博物館である。

 戦争証跡博物館は、ベトナムの戦争の歴史を伝える博物館であり、戦場での目を覆いたくなるような悲惨な写真や枯葉剤の影響を受けた奇形児の写真、またそのホルマリン漬けなどがベトナム語と英語で展示されている。

 

現在大学卒業を間近に控えた私が初めて同博物館を訪れたのは、大学1年生の8月だ。大学入学と同時にベトナムで現地学生との交流会を開催するサークルに入会した私はベトナム漬けの大学生活が始まることとなった。初めてのベトナム渡航初日、先輩に連れられ1度目の戦争証跡博物館訪問。初めて見学した時は、「可哀想」「戦争はひどい」という平和学習のありきたりな感想のみだった。正直に言えば、悲惨な展示を見ても当時の私にとってはベトナムという遠く離れた異国の地で起きた戦争の一つに過ぎなかった。

 

ベトナム滞在中はたくさんの大学や日本語学校を訪問し、行く先々で学生との交流会を行った。一回の渡航で出会うベトナムの人は数えきれないほどだった。半年おきにベトナム渡航を重ねた3年生の8月。気づけば5度目の渡越だった。慣れた足取りで戦争証跡博物館に到着し、メンバーから入場料の40,000ドン(200円)を集める。しばらくベトナムに来る予定もないし、久しぶりにしっかり展示を見てみようと思い、初めて見学するメンバーと一緒に館内展示を見て回る。ふと気づいたことがあった。

 

「知ってる単語が増えてる。」

 

 5回も同じ展示を見ているからというだけでなく、それまで多くのベトナムの人と交流を重ね、彼らと話し、聞いてきたことが私の知識となっていたからだ。顕著だったのが地名である。写真のタイトルとともに描かれている撮影地を見ると「〇〇さんの出身地だ。」「前に訪問した学校の近くだ。」などとベトナムの友人の出身地や訪問したことのある地名であった。その瞬間、知らない異国の地で起きていた出来事の写真と自分の経験が結びつき、無性に展示に吸い寄せられていた。ベトナムという地に何度も赴き、多くの人と交流する中で、ベトナムが単に異国ではなくなっていることに気づいた。ベトナムで起きた過去の悲惨な戦争に対して2年半前のように単なる他人事と感じるのではなく、たくさんの友人の故郷であり、私がたくさんの経験をさせてもらったベトナムという地で起きた出来事なのだと感じた時、戦争の悲惨さや平和の大切さを改めて考えさせられた。

 

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見学しているのは欧米の観光客がほとんど。日本人の見学者はあまり見かけない。


 現在の平和な日本に生まれた私たち世代には、平和が当たり前で戦争は過去の話にすぎない。それを自分に関連付け、「自分ごと」として捉えるのは正直なかなか難しい。学生時代の平和学習で扱われるのは、戦争映画や戦争博物館の見学、体験者の語り。どれもダイレクトに平和の大切さを伝えるものであるが、それは無縁の別世界で起きたことであるといったような他人事感が拭えない。戦争を知らない世代が、戦争を無視できないような環境を作り、誘導していくような長期的なスパンでの平和教育が実践できれば「平和」の本当の意味を考える小さなきっかけを得ることができるのではないだろうか。

想像力がもたらすもの

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本当に辿り着くのだろうか。

窓から見慣れない景色を眺めながら、私はドキドキしていた。必死に耳を傾けていた車内アナウンスが目的地を告げた。無事到着したようだ。

駅から徒歩20分。とても近いとは言えない距離に、私はバスで向かった。

 


到着したのは「東京大空襲・戦災資料センター」(https://tokyo-sensai.net)。

戦争や東京大空襲の体験を生存者の方々が映像、体験記、絵画を通して伝える場所だ。

そこにはデータだけでは知ることのできない一人一人の暮らしがあり、写真では表現できない当時のリアルな描写には何度も鳥肌が立った。

 


それまでの人生、逃げていた時に見えていた景色、空襲後に歩んできた人生はそれぞれ違っていた。もし自分がその当時を生きていたら、もし生き残ったとして果たしてその後強く生きられるのだろうかと想像力が掻き立てられた。同時に生存者の方々の過去の辛い記憶を後世に伝えていかなければならない責任と葛藤を感じた。

 


そもそも、東京大空襲が起こったのは、1945年3月10日(土)未明。2時間半あまりで現在の東京23区にあたる街並みが焼き尽くされ、約100万人が被災し、約10万人が犠牲となった。

 


犠牲になったのは、日本人だけではない。

体験記の中には朝鮮人の生存者の方々のものもあった。日本の韓国併合による軍事工場・軍事施設での強制労働や出稼ぎなどの理由で来日していた方たちだ。

そして、朝鮮人の犠牲者数、被災者数は未だに不明だ。朝鮮人の遺体は、身元も確認されないまま日本人と一緒に埋葬されたり、海に流され、故郷に戻ることはなかった。データ上にはいない被災者、犠牲者が確かに存在していたのだ。データの裏側には何があるのか常に考えなくてはならないと思わされた瞬間だった。

故郷で帰りを待つ亡くなった朝鮮人の家族の気持ちを完全に理解することは難しいものの、私自身、朝鮮人の犠牲者の家族が置かれた状況を他人事として捉えることはできなかった。コロナ禍の中、父が海外で勤務している状況とどこか似ていて、彼らの気持ちを身近に感じることができたからだ。

 


自分とは直接的には関係ないと思ってしまいがちなことも、自分の目で見て感じて考え、想像することで「自分事」として捉えることが可能になるのではないか。そして、今まで見えなかったものも見えてくるのではないかと考える。

コロナ禍の時代では、差別やいじめなど簡単に人を傷つけることが日常的に行われている。これも、人々の想像力の欠如から起きているのではないだろうか。感染者が急増し、さらなる混乱が懸念されている今だからこそ、想像力を持つことがより一層強く求められている気がした。