通〜ぶりズム

街を通ぶって歩く、通〜ぶりストたちによるブログです

日韓をつなぐ『アジアの天使』

レポート明けの夏。ゼミの同期に誘われ、テアトル新宿に映画を観に行った。

その名は『アジアの天使』。


舟を編む』(13)で日本アカデミー賞最優秀監督賞を最年少で受賞した石井裕也監督が、全編韓国での撮影、95%以上のスタッフ・キャストが韓国人という環境で挑んだ作品。それぞれが心に傷をもつ、日本と韓国の家族がソウルで出会い、民族や言語を超えて新しい家族の形を築いていくロードムービーである。

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詳しくは公式HPを見てほしいが、ネタバレを避けた作中のセリフと監督陣のインタビューから日韓関係について少し考えたい。

 

予告編の「日本が嫌いな韓国人は69.4%でした」というセリフ。

それだけでなく、作中では日本語と韓国語、互いの言語が通じないことで発生するすれ違いが数多く描写される。観ている私も心がピリッとし、思わず胸が苦しくなるシーンもあった。正直、少しでも韓国語や英語でコミュニケーションがとれれば、こんな辛い体験をしなくても済むのになぁと感じた。しかし映画を観終える頃、何よりも大事なのは“言葉が通じる”ことではない、言葉がわからなくても人間同士通じ合える、と心から信じられるようになった。

 

「この国で必要な言葉は、メクチュ・チュセヨ(ビールください)とサランヘヨ(愛しています)」

剛(池松壮亮)が渡韓した際、韓国で生活する剛の兄(オダギリジョー)が発したセリフ。嘘っぽく聞こえるかもしれないが、本質を突いているともいえる。実際この映画は完成に至るまで、政治的な日韓関係の悪化、コロナ禍といった危機や、言葉・文化が異なる作り手の間で生じる日常的な衝突や疑い、といった数々の困難があった。しかし、監督は毎日のようにスタッフとビールを飲んで、くだらない無駄な話を沢山することで仕事を超えた信頼関係を築いたという。助監督は石井監督を「コミュニケーションのスペシャリスト」と形容する。(公式パンフレットから一部抜粋)

 

私は韓国語と英語を勉強中だ。自分を含め皆さんに問いたい。ただ、言語が上達するだけでは現地の人々との表面的な衝突を避けることはできても、心の根底にある素の状態で関わることはできないのではないか。私はまさに、衝突を恐れて素の状態を出せないタイプだ。これからは言葉が通じなくても下手でも構わない、違いを認めたうえで心を通わせる方を選びたい。まずはメクチュを飲む練習から始めるべきだろうか…。

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『アジアの天使』公式ポスター(韓国語タイトルは당신은 믿지 안겠지만 “あなたは信じないだろうけど”)

 

言語の壁の向こう側

新型コロナウイルスが中国で流行り始めた2020年の2月、私は友人たちとヨーロッパ周遊旅行へ赴いた。旅行の7日目、イタリアのフィレンツェに到着し、エアビーで予約した街中のアパートに向かった。

私たちは予定されていた時間より少し早く着いたが、お構いなしに宿のドアを開けると、部屋の中で私たちと同い年くらいのイタリア人女性が清掃作業を行なっていた。

私は「チャオ!」と挨拶し、「私達はこの部屋のゲストで、チェックインしに来ました!」と英語で伝えた。すると彼女は私の目を見ながら戸惑いの表情を見せ、何かを言いたそうに口をモゴモゴさせていた。

少し気まずさを感じた私は様々な事を英語で質問したが、彼女は無言のままニコニコするだけで、英語を全く理解していないようだった。当然ながら私も全くイタリア語を話せない。つまり私達は、お互い共通に理解できる言語がないという状況に陥ったのだ。

そこからは、まだ清掃作業中である事や、チェックアウト時は、鍵をポストに入れる事、清掃作業が終わる前に、荷物を置いて外へ観光に出掛けたい事など、互いに伝えたい事をジェスチャーや表情だけで、伝え合い、私達はその宿を後にした。

この言葉を一切使わず、心を通じ合せる体験の中で、私は彼女に強い好感を持っていた。私達は互いの言葉を全く理解出来ないという途方もないほどの言語の壁にぶつかっていたが、互いに自分の言葉を捨てる事で、より一つになり、互いの事を深く理解出来た気がした。

言語に限らず、世界には様々な壁や境界線があり、人々を分け隔てているが、その壁を全て取っ払う事ができれば、世界はもっと平和になるんじゃないかとふと思った。f:id:tuuburism:20210820211824j:plain

日本のアメリカを歩く

昨年、新型コロナウイルスの影響で1年間のアメリカ留学が中止になってしまった。おかげで外国に行きたい欲が日々高まっているところだ。

コロナ禍でどこにも行けないといっても、せっかくの夏休みである。少しでもアメリカを感じたいと思い、米軍横田基地が市域の1/3を占める「福生(ふっさ)市」に行ってみることにした。ちょうど横田基地周辺のアメリカンストリートを散策できる「ふっさんぽ 異国情緒を体感ルート」があり、とりあえずその通りに進んでみる。

まず福生市のお隣、昭島市拝島駅からスタート。国道16号線沿いをせっせと歩く。10分ほど歩いて基地は見えてきたものの、周辺にアメリカらしさはあまりない。

しかし福生市に入った途端、変化に気づく。
「DEMODE DINER」というアメリカンフード店が突然現れたのだ。しかも道路沿いに植えられている木は、見慣れた広葉樹林からヤシの木に変わっている。そこからアメリカン雑貨店、古着屋、ハンバーガー屋など「アメリカらしい」お店が立ち並んでいた。
英語の看板、ヤシの木、そして右手には基地。見える景色はもう「アメリカ」だった。

歩いていく中で印象的だったのは、至るところに“FRIENDSHIP”という単語が使用されていたことである。基地周辺のお店を紹介するマップにはFUSSA“FRIENDSHIP”PROMENADEと書かれているし、途中には“FRIENDSHIP”PARKなる公園もあった。

しかし、私は“FRIENDSHIP”という単語に少し違和感を感じてしまった。
なぜならアメリカンストリートの店員も訪れる客も日本人ばかりで、アメリカ人を見かけることはなかったからだ。

日本の米軍基地は、日米両政府の意向によって作られたものである。そのためアメリカンストリートができた経緯は「横浜中華街」や「新大久保コリアタウン」と異なり、外国人移住者が集まってできたわけではない。だから日本人と基地内のアメリカ人とは、日常的な関わりは少ないのではないかと感じた。

そんな中でアメリカンストリートの“FRIENDSHIP”はどう育まれているのか。

ブルーシールアイスクリームを食べながら、「基地のまち」をもっと知りたいと思った。

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地元に立ち戻る

これは私の地元、千葉県千葉市の海の写真である。

コロナウイルスの流行によりオンライン授業となってから、何度か散歩がてら母と海を訪れている。

 

私の住む地域では、普通に生活する中であまり外国の方を見かけることはない、と思っていた。ところが、度々海を訪れて長時間滞在していると、外国の方をよくみかけることに気が付いた。特に中国などアジアの方々が多い。友人や家族と海に遊びに来ているのだ。これは私にとっては新たな発見だった。この地域の海は別に観光地でも何でもないため、比較的近くに住む人々だろう。

 

また、私はコロナ禍に、最寄り駅にある豆腐屋でアルバイトをはじめた。最寄り駅には居酒屋や大きな商業施設はなく、同じ施設内にスーパーマーケットが入っているため、自ずとどのような人々がこの地域に暮らしているのか、アルバイトをするうちにわかるようになった。そこで明らかになったのは、海で感じたことと同様に、意外と外国の方がこの地域にも住んでいるということだ。しかも、海ではアジアの方をよく見かけたが、意外とアジア以外の地域出身であろう人々も住んでいるのだと気が付いた。お肉を食べることのできない地域の方が、お肉の代わりに大豆製品を使用した総菜を買っていくこともあったと他の従業員から聞いた。

 

日本に暮らす外国出身の方々が増えてきているということは耳にしていたのだが、どこか東京などの都市部や中心部における出来事だと思っており、地元でその実感はわいていなかった。

しかし、コロナによりオンライン授業となったことで地元で過ごす時間が増え、その認識は変化した。私の地元のような小さな地域にも外国出身の方々は暮らしているのだ。

これにより、日本における外国人の増加に関する様々な問題・意見は、私の地元においても決して他人事ではないのだと改めて感じさせられた。新聞やニュース、SNSで得た情報を基に議論するだけではなく、一度自分の暮らす地域に立ち戻って考えることも必要なのではないか。

 

振り返ってみると、学校や習い事、大きな商業施設等以外で、これほどの時間を地元で過ごすことはなかったかもしれない。私だけでなく、多くの人がコロナ禍で家や地元で過ごす時間が増えたと思う。スーパーマーケットの定点観測までいかなくても、カフェやベンチで休みながら街を行き交う人々を眺めてみると、その地域の新たな一面が見えてくるかもしれない。

越境を始める虹の都

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虹の都、光の港、キネマの天地

1929年に映画の主題歌として発表された歌謡曲、『蒲田行進曲』の冒頭の歌詞である。流行歌となって以降、この曲は蒲田という街を代表するものになっていった。

 

東京都大田区の南、多摩川を挟んで川崎の反対側にある蒲田。その東側には東京の空の玄関口が鎮座している。電車を使って空港に行く人は、この蒲田という街を必ず通る。そういったこともあり日本にやって来た人が住む場所として蒲田を選ぶことも少なくないという。しかし、だからと言って蒲田が多国籍な街かと問われても、迷わず首を縦に振ることはできない。

私が最初に蒲田という街に来たのは、15年以上前のことである。おぼろげな記憶だが中国語が色々な所から聞こえてきたことを覚えている。中国語が飛び交う街は横浜に池袋、西川口と首都圏にもたくさんあるが、私にとっては蒲田が初めてだった。今でも私は何度か蒲田に行くことがある。中国語が聞こえてくるのは初めてきた当時と変わらないが、何回か来る中で別の印象が根付いてきた。池袋や横浜などの街と蒲田が同じようには見えないのだ。ここには区役所があり、昭和の頃から続く商店街があり、夜にはバーやクラブのサインが光り始める。区画によって、時間帯によって、蒲田の色は常に変化しているように感じた。様々な建物が立ち並ぶ唯一無二の街並みを形成しているように思えてきた。これほど一言で言い表すことができない街は他に見たことがない。

 

冒頭で紹介した『蒲田行進曲』、蒲田駅のメロディーとして使われているため、小さい頃から蒲田を通る時によく聞いていた。だがその歌詞を初めて聞いた時、虹の都は蒲田のことだと考えていたが、何を表すのかがわからなかった。それが今では自分なりの答えを見出せた気がする。この蒲田という街は、様々な人が様々な建物で生き、様々な色を作り出す。決して1色に染まることはない。これこそが虹の都なのだと感じた。そしてその東にある「光の港」が輝く中で、更に様々な国の人たちが様々な文化を蒲田に入れていく。虹の都は今越境をはじめ、より色鮮やかになろうとしている。

遅れをとる日本

 

私は3ヶ月に1回の頻度で母親と韓国旅行に行ってきた(コロナ前まで)。

 

韓国は行くたび新たな発見が必ずあるので何度行っても飽きない。

 

そのうちの一つに弘大駅や明洞駅周辺のお店の変化ある。

行くたび同じ道が全く違って見えるほど複数のお店の外装が変わっていたり、同じお店に入ってもメニューがガラリと変わっていたりする。

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↑2016年に流行ったシカゴピザ

 

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↑人気のカルボナーラにチキンを合わせた独創的なメニュー(撮影2019年)
 

この変化の中を生き続ける韓国の飲食・アイドル・その他日用雑貨を取り扱う店舗の努力は著しく、高く評価されるべきだ。

体感の話になってしまうが15年ほど前「冬のソナタ」や「東方神起」など日本に韓国ブームが来た時、未だソウルという都市はこんなにスピード感を持った魅力的な都市ではなかったように感じる。

このスピード感は美容・アイドル・食・カフェなど様々な文化が多角的に場所取り・人気取り的な競争をしあって形成されてきたであろう。

彼らの自己・自店PR力と時代の流れに乗るための努力の賜物であり、韓国ソウルの繁華街はまさに“流行り”の宝庫である。

 

 

 

韓国での体験談をふまえて日本について語りたい。

 

日本はもともと「保守的」「他力本願的」な印象が強い。由緒あるお店を好むし内装・外装を変えるとなると相当な時間をかけてじっくりと確実に構想を練る。

 

その反面、国民は新しいものを好み流行りのものはすぐに飽きる傾向にあるようだ。

オープン後連日大量の人が来店し列をなしていた繁華街にできた綿飴屋さん(原宿)も、2ヶ月もすれば平日なら並ばずともお店に入れたり、むしろ客がいないなんて光景も目にしたことがある。

ここで問題視したいのが、この現状があってもお店が潰れることはなかなかないという日本の現状である。

「ここ人入ってるのかな」「潰れそうだよね」と言った印象のお店ですらなんだかんだ頑張って営業していたりする。これは日本特有の現状維持志向がかなり影響していると思う。

 

新しいものは好きだ。しかしそれは無責任に取り入れられる立場だから好きなのであって自分が新しいものを作り出していく、自ら変化の渦に入っていくのは危険性が高く好ましくない。

こう考える人が日本国民の大部分を占めていると感じる。

 

この国民性は世界的には責任感が慎重で考え抜く力がある⇨失敗が少ない優秀な日本人として評価されてきたわけだが、この国民性を今後も貫くのは果たして評価されるべきなのだろうか。

 

より様々な国で変化が生じ国際的に競争が激しくなるであろうアフターコロナを考えると日本人らしさ・我々の強み/弱みについて再考する必要がありそうだ。

 

#韓国 #日韓関係 #韓国文化

 

www.kai-group.com

 

www.itmedia.co.jp

アーレントかアイヒマンか

私はサークルでよく「アーレント」と呼ばれる。名前がハンナ・アーレントに似ているからだ。

ある日の大学の授業でちょうどハンナ・アーレントについて学ぶ機会があった。彼女はユダヤ人の思想家で、「悪の凡庸さ」という概念を後世に残している。ユダヤ人大虐殺を行った首謀者のアイヒマンという人物は戦後の裁判で自分は「ただ上の指示に従っただけだ」と答えた。このことからアーレントは、世界最大の悪は何も考えずただ上に従った人間であり、ごく平凡な人間であることを明らかにした。それが「悪の凡庸さ」である。

 

正直ギクッとした。「悪の凡庸さ」と聞いて、米国の高校に2年間単身で留学をしていた時の自分を思い出したからだ。

 

知らない新たな文化をたくさん学ぶことができた。しかし、1番心に残っているのは批判的思考の仕方を知らない自分自身と対峙したことだった。

 

American Studiesというアメリカの政治や歴史について学ぶ社会のクラスがあった。そこで先生に、自分の政治思想を教えてくれるオンライン診断 "Political Compass"を受けさせられた。次のような質問の数々に当時の私は賛成か反対かで答えていった。

 

「不法移民は直ちに逮捕するべきだ」

 

私は迷いなくAgreeを押した。「え、だって犯罪をしっかり取り締まらなければ治安が守られないもん」と思ったからだ。当時の私は移民の権利は守られるべきだと思っていたが、不法移民は守られなくても仕方がないと思っていた。文字通り「不法」だからである。

 

「近頃は水を飲むだけでも消費者としてボトルに入った水を買わなければならないのは社会の悲しい一面だ」

 

... 少し迷ってDisagreeを押した。「うーん、でも質の良い水が安い値段で手に入るのは便利だし良いことじゃないのかな?」と思ったからだ。

 

そんな調子で質問に答え続けて私が得た結果は

 

                “Authoritarian Right”

 

つまり権威主義右派。「独裁政権ファシズム支持者」などが当てはまる領域の政治思想だった。目を疑った。何かの間違いかと思ったが、そうではなかった。あの頃の私は自分が平和で平等な世界を望むリベラルな人間だと思っていただけあってショックだった。留学しようと思ったのも、より平和な世界を築くためのヒントを得たかったからだった。

 

平和、平等とは何だろうか。私が思い描いていたのは日本目線で、かつ比較的恵まれた人間としての平和や平等に過ぎなかったのではないだろうか。留学を終えて、大学に入って今までの自分の考え方の狭さ、おかしさに色々気付かされた。私の中には生まれてから高校二年生までずっと日本で教育を受けてきて、無意識のうちに培われてきた歪んだ愛国心と正義感があった。そしてそれは愛すべき隣国や世界の人々を大きく敵に回しうる狭く間違った正義であり、ごくごくつまらない、しかし将来恐ろしく牙を剝く可能性のある平凡な悪だった。そして1番恐ろしいのは、自分がそのような思想傾向を持っていたことに、留学するまで気づかなかったことである。悪気のない悪ほど恐ろしいものはない。

 

アーレント?とんでもない。私はれっきとしたアイヒマンの卵だった。今の大学とゼミでの学びがなければ、私もまた凡庸な悪を心に宿した偽善者の一人となっていただろう。

 

P.S. 私が留学先で受けたオンライン診断を一番下に添付しておくので、興味がある方は是非受けてみて欲しい。

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診断の結果はこの表のうちのどの辺の領域に点が打たれるかであなたの政治思考傾向がわかる。

www.politicalcompass.org