通〜ぶりズム

街を通ぶって歩く、通〜ぶりストたちによるブログです

私だけは「いい日本人」でありたい 飛鷹

 ぎゅうぎゅうに敷き詰められた安価ベッド。改竄されたタイムカード。涙を流し監視の厳しさを訴える女性たち。

 日本語を学ぶベトナム人学生との交流会に参加するより前、私が技能実習生のドキュメンタリーから得たイメージとはそこに収束されていた。夢を持って渡航するベトナム人労働者を虐げる日本人経営者。だからこそ交流会の話が持ち上がった時の私の気は重かった。何を話せばいいのか? 夢見る学生の鼻先に日本は酷い国だ、と叩きつけられるはずもない。教授の言う「交流会の大きな意味」がどこにあるのか私にはわからなかった。

「それでは○○大学の皆さまの、ご入場です!」

 そして当日、私は専用に用意されたスクリーンと飾り付け、百数十対の目と割れんばかりの拍手の音に呆気にとられることになる。ベトナム人学生は歌やダンスを披露し、その後も沢山の遊びで私たちをもてなした。最初は緊張と狼狽で固かった場の雰囲気も和み、会話も盛り上がっては歓声もあちらこちらで聞こえるようになった。

「私は、お金を貯めて、日本語の通訳になりたいです」

 私の目の前で一つ年上の女の子が言った。彼女の出身はベトナム中部、山あいの観光地であるダラットという町で、日本では聞いたことがなかったが、見せてもらった写真は花々が咲き乱れ美しかった。今は大学の近隣に住んでいるが、毎日の通学にはバイクを使う。乗ったことがない、と私が言うと彼女は快く後部座席に誘ってくれた。

 散々はしゃいで笑った。ベトナムは湿度が高いが、バイクの後部座席に乗ると風が頬を撫でて心地よい。怖さをかき消すため、けれど力みすぎないように掴まった彼女の肩は柔らかく、温かかった。 

 その熱を感じながら、私は、彼女が「彼女ら」のようになって欲しくないと思った。涙を流し、日本に来なければよかったと顔を覆う技能実習生たち。私は制度を変えることはできない。「彼女ら」の絶望や憤慨に寄り添うことも。

 けれど、もし様々な不運や悪意が重なって、ベトナム人学生が日本を恨むようなことがあった時に、「私を思い出されたい」と思う。いい日本人もいたのだ、と。全てを恨む気持ちに繋がる前に、他の日本人に助けを求めるのでも、あるいは僅かな奥底の心の支えになるのでもいい。それはベトナムを恨む何かが起こるかもしれない未来の私にだって同じだ。

 現在も日本では中国や韓国との関係が悪化し、SNSではヘイトな言葉が拡散されることも多々ある。しかし、この中の一体何人が相手の国に行ったことがあり、そこで生きる人々と会話したことがあるだろう。

 私はきっと、ベトナムとの間にどんなことがあったとしてもあの風の心地よさを思い出す。全てを恨む、その前に。

 

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私と同じ温度の背中