通〜ぶりズム

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グリーンブックを観て

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『グリーンブック』は実話を元にしたストーリーで、人種差別の影響が強く残る1960年代のアメリカ南部を舞台に、黒人ピアニストとイタリア系男性の友情を描いた作品だ。昨年の「第91回アカデミー賞」にて作品賞を受賞した。

 この映画を観終わると、黒人がいかに冷遇されているかを理解するというよりは、白人が黒人に対して心を開いていくプロセスを描いているように感じ、「白人目線」の映画だと批判的に感じた自分がいた。
 しかし、この映画からは私たちが暮らす日本が抱える問題と共通する点を読み取ることもできるのではとも感じた。映画では、黒人のシャーリーが服の試着を断られる、白人と別のトイレやレストランを使用させられるなど、黒人差別の被害を受けるシーンがたくさん見受けられる。そのシーンの中で、服屋やレストランの店員はシャーリーに理由を尋ねられると、「決まりだから。」と何度も答える。私はこのセリフから、映画の中の白人たちは意識的に差別しているというよりは、無意識に差別的な行動を取っているのではないかと感じた。
 異なるバックグラウンドを持つ人々に対するする無意識の差別というと、日本にも形は違えど、関連するような問題は存在するのではないだろうか。例えば、最近は段々と減ってきているが、日本人の中には、日本で生活していたり、仕事や旅行で訪れる外国人のことを何気なく「外人」と呼ぶ人がいる。「外人だから日本語はわからないだろう。」、「外人だから日本のマナーもわからないだろう。」と。この「外人」という言葉には、日本人であるか、そうでないかという2択で日本人でない人を一括りにするような概念が存在する。このような身近な事例を考えると、黒人差別問題に対する見方も、外国の問題という感覚から変わってくるかもしれない。

 もう一つ気になったのは、「黒人でも白人でもない自分は何者だ?」というシャーリーのセリフだ。肌色は黒ではあるが、高度な教育を持つピアノの天才であるシャーリーのステレオタイプは黒人のものではない。彼は、自らのアイデンティティに疑問を持ち、どちらにも所属できない孤独を常に感じる。
 ひょっとしたら、日本における移民二世もこのような自己認識の揺らぎを持つではないか。日本で生まれた彼らは、日本人と同じような語学力や文化への認識を持つが、家庭内の文化と言語はホーム社会のままであることが少なくない。特に、子供時代の自己認識を形成をしていく中で、エスニック・マイノリティーというアイデンティティーをどう受け止めるかに葛藤を持つ移民二世が多くいる。仮に日本社会がマイノリティーに対するマイナスなイメージななければ、彼らの困惑はもっと解消しやすくなるだろう。

 


※Green book
グリーンブックは、米国で1960年代まで使われた黒人用ガイドブックのこと。当時の米南部はジム・クロウ法のもと、有色人種の血が一滴でも混じった人は、ホテルもレストランも公共交通機関も、白人と別々でなければ利用できなかった。そこで、郵便配達人だったニューヨーク出身の黒人、ヴィクター・H・グリーンが、黒人が泊まれるホテルや食事ができるレストランなどを本にまとめ、グリーンブックと呼ばれるように。人種隔離の厳しい公共交通機関を避けて車を使うことが増えた黒人などの間で、広く使われるようになったという。