通〜ぶりズム

街を通ぶって歩く、通〜ぶりストたちによるブログです

同じ窯の飯を、食えないひと

「同じ釜の飯を、食えない人」


一昨年の秋、しっかり丸くなった自分の顔を鏡で見て渋々ダイエットを決意した。

その頃我が家では、一週間に1日水のみで生活するという「月曜断食」なるものが流行しており、私も母と一緒に週一回の断食に挑戦した。

軽い気持ちで始めたが、これが本当につらかった。空腹感そのものもさることながら、「食事」を断つことは、想像以上に色んなものを断つことだったからだ。

友達とのランチも、サークルの飲み会も、授業後に行くカフェゴトーも、ない。一切ないのだ。自分は食べないことを前提に飲み会に参加したこともあったが、なんだか疎外感を感じて楽しめなかった。

私は悟った。人間は、食べないと、暇だ。暇で、とてつもなく、孤独だ。

当然ダイエットは志半ばにして終了を迎えた。


先日、一冊の本をめくった。潰瘍性大腸炎(先日退任した安倍前首相と同じ病気)を患った著者の闘病エッセイだ。

潰瘍性大腸炎の患者は、食べられるものが非常に限られている。もしも口にしてしまったら、最悪死に至る食品もある。口にしたら大変なことになるから食べられないのに、周囲の人からは「少しくらいいいでしょ」「ちょっとだけでも食べてみて」としつこく勧められる。これが一生続くのだ。健常者社会には「食べることは受け入れること」だという文化があって、「食べないこと」「食べられないこと」が、人間関係に大きな影響を及ぼすと著者は記す。

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頭木 弘樹『食べることと出すこと (シリーズ ケアをひらく)』)


「同じ釜の飯を食う」という言葉がある。同じものを食べることで深まる絆は確かにある。食事を共にするとき、人間は食材以外にも感情を、連体感を、共有する。そうやって食文化は育まれてきた。

しかし、それが全てであっていいのか。ダイエットはやめられるが、難病は一生続く。「食事を共にできないこと」が必要以上の阻害を生む社会に、健常者は気付くことが出来ない。

コロナ下、「一緒に食事をとる」ことはリスクとなった。「同じものを同じ場所で食べる」こと以外にも、人間が繋がっていられる方法は、必ずあるはずだ。