通〜ぶりズム

街を通ぶって歩く、通〜ぶりストたちによるブログです

被災地からの警鐘

1枚目の写真は宮城県石巻市の南浜地区の現在の様子である。この、家屋が点々とありながらも広大に広がる土地には、10年前まで民家や工場がびっしりと並んでいのだ。


現在受講中の演習を開講している先生の主催で石巻の被災地を巡る12日のツアーに参加する機会があった。はっきりいうと私は生半可な気持ちで石巻に行った。ツアーは石巻集合だったため、前日に到着して石巻焼きそばを食べたり地元の銭湯に行ったりレンタカーで周辺をドライブしたり・・・・・・完全にいつもの旅行の感覚だった。翌日の昼に集合して受講中の演習のメンバーと昼食をとっていた時、先生が「楽しんでいられるのも今のうちですよ」と言いながら通りすぎた意味を実感させられることになる。

私たちが巡ったのは、市街地の海側にある門脇地区と南浜地区と市の北東にある北上町。10年前の震災で津波によって甚大な被害を受けた地域である。2人の被災者の話を直接聞くことができた。

1人は当時6歳の娘さんを失くした女性だった。娘さんは地震発生当時、山の上にある幼稚園にいた。発生後は保護者のところに送るためにバスに乗せられて海が近い地区を走っていた。そこを津波が襲った。3日後、津波の直後に起きた大規模な火災に巻き込まれたバスの中で重なるように息絶えていた娘さんたちを女性は発見した。その話をする際に女性の声が震え続けていたのを感じて何も言葉が出なくなった。

もう1人は津波で多くの犠牲者を出した北上町の大川小学校のPTAを長年務めた女性だった。この女性には2日に渡って詳細な話を聞いた。1日目は南浜地区の被災前の様子と被災後の様子、町の跡地に作られた大規模な復興祈念公園について、2日目は大川小学校について実際に現地を見ながら話を聞いた。特に2枚目の写真にもある大川小学校は、不適切な対応で80名以上の児童と先生が津波で犠牲となってしまったため、同じく声を震わせながら説明する女性の話を聞いて、そこに当時いなかったのにも関わらずやるせない気持ちになった。

 

東日本大震災全体を考えるとき、2人の被災者の話は震災で無数に起きた悲劇の中の12つにすぎないのかもしれない。しかし、こうした個々の悲劇には同じ悲劇を今後生み出さないための教訓があるのではないか。被災者の2人は「あの時バスが山から下の方へ出発していなければ・・・」、「あの時子供たちを早く裏山の方へ避難させておけば・・・」のように、子どもたちの命を救えた場面がいくつもあったことを教えてくれた。単に悲劇で終わらせるだけでなく、同じような過ちを繰り返さないためにどうすればいいかを考えさせられもした。

 

3枚目の写真は、所変わって四国の高知県中土佐町の久礼(くれ)という街である。石巻と同様にこの街は数十年後、一瞬のうちに津波で飲み込まれてしまう時が来るのかもしれない。今年の7月、私は初めて高知を旅行で訪れた際にこの街に立ち寄った。久礼大正市場という風情のある市場で高知名物のかつお丼を食したあと、なんとなく海辺に向かった。そこには避難タワーという15mほどの高さの建造物があった。そこから望めたのは山の方へと広がる久礼の街と太平洋だった。この避難タワーはいずれ起こるとされる南海トラフ地震を想定して作られた。地震が起きた際、この町には間違いなく津波がやってくる。そのことを想像しながら私は久礼の街を避難タワーから見ていた、それもなぜか呆然と・・・

震災から10年、石巻を修学旅行や研修旅行で訪れる中学校や高校が増えたという。特に多いのが静岡や愛知、三重など南海トラフ地震津波の到達が想定されている地域の中学・高校だという。高知県徳島県大分県や宮崎県など石巻から遠く離れた地域の学校は、リモートで石巻のツアーで参加しているという。その話を聞いて、ぜひとも石巻の教訓を活かして欲しいと、津波を経験していない人間が何様だと自分でも思いながら願った。f:id:tuuburism:20211130173442j:plainf:id:tuuburism:20211130173511j:plainf:id:tuuburism:20211130173559j:plain