越境のかたち
「あなたは何人(なにじん)なの?」
そう聞かれると、少し返答に困ってしまう。
私には、日本の血も、フィリピンの血も、スペインの血も流れているからだ。
だから私は少し考えて、「実は、クォーターなんです。」と答える。
しかし、そう打ち明けることには若干の抵抗や不安がある。
「ハーフ」「クォーター」と聞くと、何を想像するだろうか。
一般的に、ルーツを持つ国の言語を流暢に話すことができたり、特徴的な見た目をしていることを期待するのではないだろうか。
私がクォーターであることを打ち明けると、「タガログ語やスペイン語は話せるの?」「向こうに住んでいたことはあるの?」とお決まりの質問をされる。「見た目じゃ全然わからないね」なんてことも言われたりする。
でも、私はタガログ語を話すことはできないし、ましてやスペインになんて行ったこともない。
人が「ハーフ」「クォーター」に期待するものを、自分は持ち合わせていない。
だから、なるべく日本の慣習に溶け込むようにして、クォーターであることを必要以上に隠すようにして生きてきた。
でも、最近気付いたことがある。同じようなジレンマを抱える人は、意外にもいるんだな、と。
私が思い切って打ち明けると、アルバイト先の上司や高校時代の友人も外国にルーツを持つことを打ち明けてくれた。彼ら、彼女らもまた、日本とルーツを持つ国の間で様々な葛藤を抱えていたようだ。大学に入って更に沢山のそのようなジレンマを抱える人々と出会うようになった。
「ハーフ」「クォーター」に対するイメージと、実態が乖離しているのかもしれない。
私も、私の中で無意識のうちに「クォーターはこうあるべき」とか、「理想のハーフ像」を形成して、自分を苦しめていたのかもしれない。
越境のかたちは、一つじゃない。
ルーツをもつ国の言語は話せないけれど、海を越えれば言葉の通わない家族がいる。帰る家もある。
「ふるさとの味」と言われたら、肉じゃがとアドボが思い浮かぶ。
そんな越境のかたちがあってもいいんじゃないかと、今は思う。