通〜ぶりズム

街を通ぶって歩く、通〜ぶりストたちによるブログです

太陽の塔という「樹」

伊丹空港からモノレールに揺られ、窓を眺めていると、木々から不気味な顔がニョキっと出てくる。

モノレールが進むにつれて、どんどんその全貌が見えてくる。

 

太陽の塔だ。 

 

いつもは京都の祖母の家にまっすぐ向かうが、今日は寄り道して塔の内部に入ると決めていた。

太陽の塔の中は空洞ではない。予想以上に鮮血色の派手な展示が万博当時からある。

 

結論から先に言うと、太陽の塔は、大都会のど真ん中に生えている縄文杉のような存在だ。

 

塔内部の中心には巨大な”生命の樹”が生えている。

樹の根本にはアメーバがいて、一番上の人類まで進化の過程が見て取れる。

命の流れ、そして根源は全て同じことを感じさせてくれる。

 

1970年の万博のテーマは「人類の進歩と調和」。言い換えれば「産業技術の発展が人類の幸せ」という感じだろうか。だが、太陽の塔をつくった岡本太郎は「人類は進歩していない」と公言している。

 

太陽の塔は万博へのアンチテーゼなのだ。

 

しかし、ただのアンチテーゼではない。太郎はこう述べている。

「けんかじゃない、うれしい闘いをやったわけ。アンチハーモニーこそほんとうの調和ですよ。」(梅棹忠夫『民博誕生』中公新書 1978年)

陰と陽のバランスで世界が成り立つことを暗示したかったのだろうか。

 

右派と左派、戦争と平和

世の中は分離で溢れかえっている。

それらを超越した” 神話”を彼は太陽の塔という贈り物で、私たちに伝えている気がした。

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太陽の塔(要予約)/大阪モノレール万博記念公園駅より徒歩5分 https://taiyounotou-expo70.jp

 

空間の記憶

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9月、ポール・ルセサバギナ氏がテロ行為の疑いで逮捕された。映画「ホテル・ルワンダ」のモデルとなった元ホテル支配人である。1994年、ルワンダ虐殺真っただ中に避難民を救助した英雄として知られている。だが、逮捕に至る経緯は不透明な部分が多く、真相は闇の中だ。

 


日本から遥か1万km。東アフリカに位置する小さな国。この国には忘れてはいけない記憶がある。私たちが生まれる数年前、民族間で対立が起こった。たった100日間で80万以上の人々が虐殺されてしまった。

 

2月、私はルワンダにいた。
都市のキガリは、虐殺の歴史を全く感じさせないほど綺麗で整備が進んでいる。すれ違う子どもたちは元気に挨拶をしてくれた。

 

滞在4日目の雨の日。荒い運転のタクシーに乗り、“Kigali Genocide Memorial”に足を運んだ。

館内に入ると、ビデオ視聴室へ案内された。生き残った人々のリアルな話に、だんだんと引き込まれていった。

それから、展示室へ移る。
ルワンダの言葉とフランス語、英語で書かれていた文字は小さく、目で追うのに一苦労だ。しかし、それ以上に衝撃を与えたのはジェノサイド当時の写真だった。
血を流した人々が折り重なるように倒れている教会の写真は、今でも目に焼き付いている。
展示室は衝撃を与え続ける。
キガリで見つかった100個近くもの頭蓋骨や足、腕、鋤骨などの人骨。被害者が当時着ていた服。思わず一人でいられなくなり、友達に駆け寄った。なかでも、亡くなった人々の写真は何かを必死に訴えているようで、恐怖から鳥肌が立った。
人間が人間を殺すという行為の重みが嫌というほどに伝わってきた空間であった。

 

現代の子どもの中には、虐殺を信じない子もいるという。虐殺の爪痕を感じさせない都市で、悲劇を想像することは確かに困難である。
そんな子どもたちに、この空間は事実と向き合う時間を与えてくれると思った。過去の悲惨な歴史から目を背けないこと、そして記憶を伝え続けていくこと。それが、私たちの使命であると呼びかけているようであった。

 

“Kigali Genocide Memorial”を出て、タクシーを探す。雨は止み、雲の隙間からは光がさしていた。
ふと、空から「記憶のバトン」を渡された気がした。 
これを見た皆さんにも、バトンが渡っていたら嬉しい。

「過ち」と向き合う

「背筋が伸びるよね、この国を守ってくれた人たちがそこにいると思うと」
父は靖国神社が好きだと言う。しかし私は、父と靖国神社の話をするとき、なんとなく心が曇るのを感じる。「この国を守ってくれた人たち」を祀る神社に参拝することは、どのような意味を持つのだろう。

 

靖国神社の境内には、遊就館という建物がある。遊就館では、戊辰戦争から太平洋戦争にかけての軍事史が記されたパネルとともに、各時代の「英霊」たちの遺書や遺品が展示されている。「英霊」とは、安政の大獄以後に国事に関連して死没し、靖国神社(前身の東京招魂社も含む)に祀られた人々を指す。

 

遊就館を見てまわっているとき、私は広島の平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑を思い返していた。
「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」
この碑文には、全人類の共存と繁栄、真の世界平和への願いが込められているそうだが、「英霊」を讃える遊就館の立場は、この碑文の立場と相容れない気がした。実際に、遊就館の入り口付近の石碑で英雄として紹介されているパール博士は、この「過ち」という表現を批判している。彼は極東国際軍事裁判の判事の一人として、連合国が敗戦国を裁く構造に反対し、日本の軍人、軍属全員の無罪を主張した人物だ。しかし、靖国神社に祀られる人々も含め、戦争で大量に犠牲が出た以上、「過ち」がなかったと言うことはできない。

 

靖国神社に祀られる人々は、国のために戦った「英霊」か、「過ち」を主導した「罪人」か。安易に決めることはできないだろう。国のために戦った人々を讃えることは、「過ち」から目を背ける行為に思える。しかし、日本の軍人、軍属のみに「過ち」の責任を問いたいわけではない。

 

一つ言えるのは、靖国神社に参拝するならば、漫然と手を合わせてはいけないということだ。考えなければならない。「過ち」とは何か。なぜ起きたのか。今後、どのように防ぐことができるのか。

 

「伸びた背筋で、いまの平和を見つめたいよね」
父に言えたら、心は晴れるだろうか。

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「特攻勇士之像」 遊就館の外で特攻隊を讃える

 

戦争の足音

今期早稲田大学文化構想学部社会構築論系グローバルアジアゼミでは#アジア#TOKYO#平和 をテーマにフィールドワークやエスノグラフィーの作成などで研究を進めています。フィールドワークとは現地または現場での採集・調査・研究のことで、このフィールドワークに基づいて人々の社会生活について具体的に記したものを一般的にエスノグラフィーと言います。

ここでは各ゼミ生がグループごとに興味関心のあるテーマに沿って作成したエスノグラフィーを投稿していきます。今週は美術館、博物館をテーマに、4人のゼミ生が三重県丹羽文雄記念室、靖国神社遊就館ルワンダのジェノサイドメモリアル、大阪の太陽の塔についてそれぞれの文章をシェアします。

 

戦争の足音

三重県近鉄四日市駅付近に位置する四日市市立博物館丹羽文雄記念室には、小説家丹羽文雄の作品や遺品などが展示されている。丹羽は早稲田大学文学部出身の小説家で、私の曽祖父に当たる。この記念室の展示品の中で一際目を引くのが、丹羽が太平洋戦争中のソロモン海戦に従軍した際に来ていた軍服だ。丹羽は1938年に召集を受けて従軍、中国、東南アジアの戦線を訪れ、帰国後に『還らぬ中隊』(『中央公論』1938年第12号)、『海戦』(中央公論社、1942年)、『報道班員の手記』(改造社、1943年)などの戦争小説を発表した。

『海戦』ではソロモン海戦に参加した際の戦況や自身の心境が詳細に描かれており、丹羽は夜襲戦の中で味方の兵が撃たれるのを目の当たりにし、自身も右腕に傷を負っている。丹羽文雄記念室に展示されている軍服には目の前で撃たれた味方の血痕や着色弾の色が残っており、夜襲戦の激しさを物語っている。

私が初めてこの軍服を目にしたのは、曽祖父が亡くなり記念室が開館した後だった。当時小学1年生だった私は、自分の肉親が戦地に赴いていたこと、もしソロモン海戦の中で曽祖父があと数歩前に出ていれば今自分はここに存在していないことを知って、その偶然に感謝した。だが同時に、曽祖父の数歩先に居た兵士のこと、その戦いさえなければ存在し得た誰かのことを考えた。それまでで一番戦争を身近に感じた瞬間だった。

終戦から70年以上が経過した現代に生きる私たちが、戦争をリアリティをもって理解することは難しい。戦争を知る世代が減って行く中でも同じ過ちを繰り返さないためには、若者世代の想像力が重要になるのかもしれない。博物館や戦争小説は、私たちに想像するきっかけを与えてくれる。

 

 

【 そらんぽ四日市】[丹羽文雄記念室]四日市市立博物館

 

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ソロモン海戦で丹羽が着用していた軍服

 

私たちは「日本語人」  HANA

 合宿4日目。私たちゼミ員24人はベトナムホーチミン近郊のある大学日本語学科の200名余りが参加する交流会に向かっていた。

 バスの中でふと思い返した出来事があった。私は以前、ベトナム現地で日本語の交流会を行うサークルに所属していたため、同様の交流会を何度も経験してきた。その中で、日本から来た学生は現地の方からこのように言われることがよくある。

「では、日本人の皆さん舞台の上へどうぞ。」

 私のサークルは、基本的に全員日本語ができる。しかし、留学生や外国ルーツの学生も参加しているサークルであったため、正確には全員を「日本人」と括ることはできない。このことに関して私はずっとモヤモヤとした気持ちを感じていた。彼らからみたら日本語を話せる私たちは日本人かもしれない。しかしその中の数人は、決して「日本人」ではないのだ。

 似たような経験を2日目に参加したクチトンネルツアーの道中のバス車内でもした。現地ガイドが流暢な日本語でベトナムと中国の関係を冗談交じりに、しかし確かに、中国に対する嫌悪感を表した時も、「日本語をわかる人=日本人」、「日本語でツアーに参加する人=日本人」という意識が彼の中にあったのだろう。だが、それぞれが多様なバックグラウンドを持つ私たちを〇〇人と括ることはできないし、何かで括って欲しくない。実際にそれを聞いていた私たちの中には中国のルーツを持つ友人もいた。グローバル化の流れの中で国籍や出身でグループを括るのは、今後さらに難しくなるだろう。

 では、あえて私たちを〇〇人と表現するとして、なんと表現すればよかったのか。

 私は、「日本語人」という言い方を知って以来、この表現が好きだ。日本語人とは、人種や国籍などに関わらず、日本語という共通の言語で繋がる人たちのことである。

 今回の交流会は、ベトナム現地大学と私たち大学の、「日本語人学生」の交流会であり、日本ではないベトナムという場所で、新たな日本語人ネットワークが形成された交流会だった。ぜひ、私は「日本語人」なんだ、と日本語に触れるみなさんに、少しでも気に留めておいて欲しいなとこの文章を書きながら改めて思う。

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現地学生に教えてもらいながら作った揚げ春巻き。私たちはお好み焼きを振る舞った。

 

郷に入っては郷に従え?

 「郷に入っては郷に従え」

    風俗や習慣はその土地によって違うから、新しい土地に来たら、その土地の風俗や習慣に従うべきだということを意味することわざだ。日本にいる時は大して気にも留めていなかったこのことわざだが、私の心に引っかかるようになったのは昨年の秋に韓国留学に来た時からだ。


 韓国の地下鉄やバスなどの公共交通機関では、携帯電話で通話している人をしばし見かける。日本では禁止とされている公共交通機関での携帯電話での通話は、韓国では社会的に許容されているため、誰も他を意識せずに通話をしているようだ。「公共交通機関では通話を控えなければならない」と学んできた日本育ちの私には、どうしても韓国のこの文化に無意識的に違和感を抱いてしまう。


 私が韓国の文化に対して違和感を抱いている一方で、日本の風俗や習慣のせいで韓国人の友人に違和感を抱かせてしまった経験も少なくはない。日本では食事をする際、器を手に取り箸を使ってご飯を食べるのが基本だ。しかし韓国では器を手に取って食べることはマナーが悪いとされテーブルに置いたまま食べる。箸を使ってご飯を食べたり汁物を飲んだりすることも失礼に当たる行為だと言う。私が韓国の文化に対して抱いた違和感を、今度は友人が日本の文化に対して抱いたようだ。


 自身が持つ風俗や習慣とは別のものに出会ったとき、果たしてその文化に必ずしも適応しなくてはならないのだろうか。たとえ自身が持つ風俗や習慣が少数派となる土地へ来たとしても、私なりのやり方を突き通してはいけないのだろうか。そんな考えを巡らせながら、この国では少数派となる私は今日も韓国の風俗や習慣を学んでいく。

 

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箸とスプーンを縦向きに並べる韓国の食事マナー

 

海のない海  飛鷹

「海行きたい。明日海行きたくないですか?」

 ゼミで向かったベトナムの街、ホーチミン。配車アプリで捕まえた窮屈な七人乗りのタクシーの中、上ずった友人の声はすげなく遮られる。

「いや、ホーチミンには海がないらしいよ」

 そうか。海がないのか、と考えた。じわりと肌の下から湧き上がってくるような暑さと湿度のせいか、あるいは輝かしいダナンリゾートのイメージのせいか、あると思っていたホーチミンには意外にも海がないらしい。

 代わりにあるのは音楽だ。繁華街のクラブのリズム。反復するクラクション。ナイトマーケットの客寄せ文句。それらは時に別々に聞こえ、時に混ざり合い、一つの鳴動する脈拍になる。そのリズムの一つに横断歩道の渡り方もあった。初日は東京と離れた無法さ、無遠慮さにおっかなびっくり固まり、小魚の群れさながらで進んだのだが、二日目の自由行動では笑いながら歩道を渡る様子も見られた。

「なんか、慣れてきたね」

 慣れてきた。それはバイクとの距離感であったり、足を進めるタイミングであったりする一つのリズムへの順応だ。ホーチミン動線は滑らかで、ルールが少ないにも拘らず混み合う道路の中で人々がぶつかり合うことも重大な事故につながることもない。

「海の魚がぶつかり合わないのと一緒だよ」

 教授が言う。そう思うと、私たちもまたこの都市の中に紛れ込んだ一匹の魚なのかもしれなかった。街の移動に慣れ、クラクションに慣れ、値引き交渉を楽しみ始める。

 確かにホーチミンに海はない。しかし、まるで小魚が恐る恐る潮に乗り始めるのと同じように。初クラブへ行った少年少女がおもむろに音楽にノリ始めるのと同じように。私たちはホーチミンという異国の海を泳ぎ始めているのかもしれない。

 そう考えながら私は激しいナイトマーケットの値段交渉の結果、Lサイズで買ってしまったTシャツに腕を通した。まだやはり少しぶかぶかだった。

 

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ホーチミンの夜の「海」