通〜ぶりズム

街を通ぶって歩く、通〜ぶりストたちによるブログです

New? or Normal? ~若者のメイクから考える日韓関係~

 BTS、BIGBANG等、日本にも大きな影響を与えている韓国男性アイドル。韓国男性アイドルにインスピレーションを受けて、日本の男性もメイクをする風潮が生まれつつあるように感じる。実際、大学生である私の回りでもアイラインやアイブロウを使用している、男性の友人が増えているように感じる。メイクは「女性のもの」と先入観をもっている私からすると、男性がメイクをしている事象は、韓国から輸入したもの、ニューノーマルなものと勝手に決めつけていた。

 しかし、日本の男性メイクの歴史を調べてみる。過去の日本でのメイクの歴史は多岐に渡り、宗教的・呪術的理由、装飾的理由、区別的理由、保護的理由などで男性もメイクをしていたことが分かっている。その中でも特に利用されていたのは、平安時代以降、武士が政治的な影響力を持つと、貴族としての振る舞いをできることを求めるという、権威的な理由があったことが分かっている。メイクを男性がしなくなったのは明治時代以降のことだという。

  最近では若い男性がメイクをすることが目立ってきたが、これは果たしてノーマルなのかニューノーマルなのか。このポスターを見たあなたに考えてほしい。

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男性アイドルの人気メイクをした半顔。

 

誰の問題?

f:id:tuuburism:20210712231241j:plain「それは女性の問題だよね。もっと社会全体への関心はないの?」

この瞬間、私は心の中でこの会社ないなと思った。

就活の面接でよく聞かれる質問の1つに関心のある社会問題がある。私もこの春、画面の向こう側にいるスーツ姿の人間に何度も尋ねられた。一番企業ウケのいい回答が何だったのかは就活を終えた今も分からない。ただ1つ分かったことは一流企業の人事の中にさえジェンダーギャップを「女性だけの問題」として捉えている人がいるということだ。

日本のジェンダー指数は世界156カ国中120位。政治、経済、教育といったあらゆる分野において世界的に大きな遅れている。「女性は禁止」といった表立った差別はなくとも、「女性なんだから家のこともしっかりやらないと」「女性は男性を支えてあげないとね」といった空気は拭えない。そんな小さな抑圧が積み重ねられていくことで、女性は自分が女性であるということを理由に限界をつくってしまうのだと思う。

では、これは本当に女性だけの問題なのだろうか。私はジェンダーギャップは女性だけの問題ではなく男性も含めた社会全体の問題だと考える。また、例えジェンダーに関してはマジョリティであっても、別のくくりになったらマイノリティになることだってある。誰もがマジョリティにもマイノリティにもなりうるといった視点が必要だろう。

「女性の輝く社会を応援!」

こんな言葉が一種の流行り言葉としてあちこちで使われている。これまでは何の違和感も覚えなかったしむしろ肯定的に受け取っていた。でも最近、いったい誰が応援する側で誰が応援される側なのだろうと考えてしまう。応援する側の人間は、対岸の火事として遠くから応援しているだけなのだろうか。そこに当事者意識はないのだろうか。誰もが同じ社会の一員であるはずなのに応援する側とされる側の間に境界線が引かれているような気がして、若干の虚しさを感じてしまう。

#ジェンダー #若者

コロナで失われたモノ、変わらないモノ

「友達がいる国に爆弾は落としたくないよね」

私はこの言葉がシンプルで分かりやすい平和への意思だと感じる。

 

2020年3月。

新型コロナウイルス感染症が拡大し、対面活動が制限される日常が始まった。それは平和活動においても例外ではない。

私が学生ボランティアとして活動している、世界の中高生の交換留学と国際交流を支援する団体も、全ての対面事業と留学プログラムが中止となった。

いつもバタバタしながらも活気に溢れていた団体は、信じられないほど静まり返ってしまった。留学のオリエンテーションや国際交流のサマーキャンプを企画・運営している学生ボランティアである私たちも、途方に暮れていた。

 

けれど、私を含めた学生ボランティアたちは、ただ単に国際交流事業を運営・企画したくてこの団体で活動している訳ではない。

多くの学生ボランティアは、自分が中高生の時に、団体の留学プログラムに参加したり、国際交流のサマーキャンプに参加したりしている。そこで、それぞれが自分なりに何かを感じ、自分の中の何かをガラッと変えられている。

だからこそ、学生ボランティアは実体験として、異なる文化的背景を持つ人が出会い、交差する場とそのきっかけのかけがえのなさを知っている。そして、そんな場ときっかけを作ってくれた歴代の学生ボランティアのように、私もその場を作りたいと思い、大学生になったら学生ボランティアを始めるのだ。

 

そんな想いと動機があるからこそ、コロナ禍であろうとも、オンラインであろうとも、歴代の学生ボランティアが繋いできた「場作り」のノウハウや想いのタスキをここで切ってはならない。その意思が集まり、学生ボランティアを中心に団体はオンラインで少しずつ動き出した。

 

 

そして9か月後の2020年12月。

私たち学生ボランティアはやっと大規模な、オンラインの国際交流イベントを実施することが出来た。参加者は、コロナ禍でもどうにか来日してくれた留学生と、全国の日本人の中高生だ。

 

しかし、私たちは不安でしかなかった。オンラインでしかも初対面の参加者が、濃い交流を出来るのかという懸念があったからだ。

実際、オンラインイベントをやってみると、やる意義は感じつつも、消化不良。対面イベントのように濃く、最後には涙を流して別れるような熱さが生まれない。

 

そう思っていた、イベントの閉会式。ある留学生が、Zoom画面の右下で控えめに手を挙げた。

 

「私には言いたいことがある。……みんな私のためにありがとう。コロナは私の留学を難しくした。やなこともあった。学校行けないし、バレー(部活動)もできない。けど、今日は友達できた、楽しかった。私もフィンランド(彼女の母国)に帰ったら、日本の話沢山するね」

 

…ちゃんと伝わってたんだ。そう思ったら、画面がにじんできた。でも他の参加者も我も我もと感想を話し始める。みんな落ち着いて…(笑)

 

 

コロナで失われたモノは沢山ある。かけがえのない人を失った人もいる。

平和活動においても、対面だからこそ出来る人と人がまっすぐ向き合い、交流できるような空間の可能性は失われた。

 

けれど、平和への意思はコロナ禍でもオンラインでも人が交わり続ける限り、その想いは紡がれ続ける。

それは変わらないモノ。だからこそ、私たちはその意思を今できる方法で形にしていく。

固定された美を捨てて

突然だが、私は重めの奥二重である。友達に「どうすれば可愛くなるかなあ」と相談したところ「二重整形すれば?」と言われた。二重への憧れは私も強く、安くできるところを探し始めたのだが、ふと「二重だったらイコール可愛いのだろうか?」と感じた。

 

各国のスタイルは様々だ。しかし一重が多いアジア人は二重を求め整形をし、髪を茶髪にする。ユニクロやギャップなどでのモデルは西洋人であることが多い。ここにはアジア人ならではの劣等感・西洋への憧れを感じざるを得ない。アジア人であることの劣等感を私たちは知らずに感じているのかもしれない。

 

「『美』は必ずしも一つではない。」そのような考えが近年グローバル化の中で現れ始めている。

6月に、有名ランジェリーブランド「ヴィクトリアズ・シークレット」のモデルの総チェンジが話題になった。磨き上げられた肢体の、「いわゆるモデル像」として挙げられる「エンジェルズ」と呼ばれた専属モデルたちは全員「卒業」し、外見を基準にすることなく選出したアンバサダーモデルに変更されていた。選ばれたのは、モデルのアドゥ・アケチ、プリヤンカー・チョープラー・ジョナス、ヴァレンティーナ・サンパイオパロマ・エルセッサー、サッカーのミーガン・ラピノー選手、フリースタイルスキーのアイリーン・グー選手、フォトグラファーのアマンダ・デ ・カドネ。多様な職業・人種・スタイルを持つ人々が選ばれているのが見て取れる。

また、パリコレでも「痩せすぎモデル」の出演禁止を決めていたり、マネキンのスタイルも「細過ぎ」ないように変更された。

アジア人らしい顔・体型。西洋人らしい顔・体型。違って当たり前のものを無理に統一し、一つに決められた「美」に向かおうとするとどこかで歪みが生じる。各国のそれぞれの美の中でも「らしい」から違った特徴を持つことさえざらにあるのに、それを全世界で統一するなんて、初めから無理な話なのだ。一つではない美をそれぞれが追い求め、それぞれにあった「美しい」を探す。それは最終的に「自国の文化を受け入れる」ことにつながるのかもしれない。

居場所

 

日本に来て早10年。自分の居場所は一体どこなのか。日常生活は日本語。しかし家に帰れば韓国語。どちらが母語なのかわからなく来ている。今まさに人生の半分を日本で過ごした。日本に何年住んでいるの?とよく聞かれることがある。10年と答える。そうしたら必ずと言ってもう「日本人」だねと言われる。こんなことを言われるたびに自分の居場所がわからなくなる。「日本人」とはなんなのか。日本で生を受けた人が「日本人」なら私は「日本人」ではない。では日本に長く住んでいる人は日本人なのかと言われても、それは違う。日本でも韓国でもどちらにも属しているからこそ、どちらにも属していないように感じてしまう。自分は周りとは違う。

自分のことを心から「韓国人」かと言われたら少し躊躇してしまう。人生の半分を日本で過ごした私は韓国のお友達より、日本のお友達が多い。尚更自分の居場所がわからなくなる。この意識は尽きることはなくこれから日本で住んでいくうえで、さらに感じていくもどかしさである。この感情は自分だけでなく長い間日本に過ごしている在日外国人はみな必ず一度は感じたことがあるだろう。

日本に来て1週間後に学校に通うことになった私は最初全く日本語も話せず、韓国に帰りたいと思っていた。しかし1年である程度話せるようになり、友達もたくさんできるようになったことで、自分にも日本での居場所ができた。私が思う「居場所」とは結局自分が話す言語が通じるか通じないかが大事だと思う。日本語を話せないうちは日本を居場所として捉えることはできなかったが、今では日本は自分の居場所の一つでもある。だからこそ言語の壁を乗り越え、結婚や友達にある人々はすごいと思う。

不安と共に生きる

2021年3月、私の元にある嬉しいメッセージが届いた。

名古屋大学の大学院に合格しました!全てが順調に進めば、来月には日本に行けると思います。会えるのを楽しみにしています。」

約一年前、私がインドネシアで日本語を教えていた時の生徒からのメールだった。当時彼女になぜ日本語を学んでいるのか尋ねると、「日本の大学院に行きたいから」と夢を恥ずかしげに語ってくれた。私が去った後も日本語を勉強し続け、自分の夢を叶えていたとは。メールを読み、自分のことのように嬉しくて跳んで喜んだ。

インドネシアへは日本語や日本文化を教えることを目的としたボランティアという形で渡航した。日本語学校で平均年齢が自分より歳上の人に日本語を教えることは初めてで、日々反省の繰り返しだった。生徒が日本語を勉強する理由は、日本でうなぎビジネスをしたい、日本の大学院で海洋学を学びたい、日本人の会社員とよく会う機会があるから…など様々だ。彼らが仕事や勉強の傍ら、夢のために日本語を熱心に勉強する姿は今も忘れられない。

日本語学校の生徒や先生達は非常に親切にしてくれ、授業のない日は色々な場所に遊びに連れて行ってくれた。異国の講師という存在の私に彼らが分け隔てなく接してくれ、コミュニティの一員として迎えてくれたことが何よりも嬉しかった。

そして気がつけば帰国日、あっという間の6週間だった。生徒達にもらった手紙を手に、寂しさを感じながらインドネシアを後にした。ちょうどこの時期に世界でコロナが猛威を奮い始め、閑散とした空港はある意味不気味でさえあった。

日本に帰ってきた直後は、インドネシアで感じた人の暖かさとコロナ禍の日本の閉鎖的な生活に大きなギャップを感じていた。まさに"現実に引き戻された"という感じである。

今考えると、この帰国後辺りを境に自分の生活が変化したと思う。行動面では、一人の時間を楽しんだり、ネットやSNSを見たりする時間が増えた。同時に、精神面では言いようのない不安を感じることが多くなった。コロナ以前より一人の時間ができ、考えることが増えたからかもしれない。友人や家族との普段の会話でも、他愛のない会話の中に「不安」を語ることが増えた。コロナ以前から元々あった得体の知れない不安が、コロナという未曾有の事態にぶつかって大きくなったのかなとも思う。

これを読んでいる人にも、何かしら言いようのない不安を抱えている人はいないだろうか。人間だから不安を感じるのは当然のことだし、それは避けられない。不安を和らげる方法は人それぞれだが、私の場合は趣味に打ち込むか、人と連絡を取り合ったり雑談をしたりするようにしている。人と話すことで気の持ちようが変わり不安が和らぐので、やはりコミュニケーションは大事だと感じる。

この先どうなるかなんて誰にも分からない状況だからこそ、不安と共にうまく生きる方法を見つけることが重要なのかもしれない。

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ジャカルタにある、東南アジア最大のイスティクラル・モスク



 

越境のかたち

「あなたは何人(なにじん)なの?」

 

 

そう聞かれると、少し返答に困ってしまう。

私には、日本の血も、フィリピンの血も、スペインの血も流れているからだ。

 

だから私は少し考えて、「実は、クォーターなんです。」と答える。

しかし、そう打ち明けることには若干の抵抗や不安がある。

 

「ハーフ」「クォーター」と聞くと、何を想像するだろうか。

一般的に、ルーツを持つ国の言語を流暢に話すことができたり、特徴的な見た目をしていることを期待するのではないだろうか。

 

 

私がクォーターであることを打ち明けると、「タガログ語スペイン語は話せるの?」「向こうに住んでいたことはあるの?」とお決まりの質問をされる。「見た目じゃ全然わからないね」なんてことも言われたりする。

 

 

でも、私はタガログ語を話すことはできないし、ましてやスペインになんて行ったこともない。

 

人が「ハーフ」「クォーター」に期待するものを、自分は持ち合わせていない。

だから、なるべく日本の慣習に溶け込むようにして、クォーターであることを必要以上に隠すようにして生きてきた。

 

 

でも、最近気付いたことがある。同じようなジレンマを抱える人は、意外にもいるんだな、と。

 

私が思い切って打ち明けると、アルバイト先の上司や高校時代の友人も外国にルーツを持つことを打ち明けてくれた。彼ら、彼女らもまた、日本とルーツを持つ国の間で様々な葛藤を抱えていたようだ。大学に入って更に沢山のそのようなジレンマを抱える人々と出会うようになった。

 

「ハーフ」「クォーター」に対するイメージと、実態が乖離しているのかもしれない。

私も、私の中で無意識のうちに「クォーターはこうあるべき」とか、「理想のハーフ像」を形成して、自分を苦しめていたのかもしれない。

 

 

越境のかたちは、一つじゃない。

 

ルーツをもつ国の言語は話せないけれど、海を越えれば言葉の通わない家族がいる。帰る家もある。

「ふるさとの味」と言われたら、肉じゃがとアドボが思い浮かぶ。

 

そんな越境のかたちがあってもいいんじゃないかと、今は思う。

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第二の故郷から見た海