通〜ぶりズム

街を通ぶって歩く、通〜ぶりストたちによるブログです

交流のかたち

高校1年生の時、シンガポールにいた私は現地の中華系の高校に通う生徒と交流する機会があった。“現地校体験”といわれるこの国際交流企画は、希望をすれば参加することができる。シンガポールにいるからこそできることをやってみたいと思っていたことや友人から誘われたこともあり、私は学校の連休中に行われていたこの“現地校体験”に参加した。

 

この“現地校体験”は2日間行われる。事前に相手校の生徒とペアが組まれており、ペアの子と行動を共にする。ペアの子が受ける授業に参加し、昼食を一緒に食べるというように2日間学校にいる間はとにかくずっと一緒にいるのだ。

 

しかし、1日目の授業で私は少しがっかりすることになる。

授業のはじめに先生が「こんにちは。あの日本人の子ね。よろしくね。」と言うと、そのまま何事もなかったように授業が淡々と進んでいったのだ。

科目は数学。ホワイトボードには日本の高校1年生が習わないような難しい数式が書かれ始めた。ペアの子や教室にいた生徒たちは皆、授業についていくのに必死な様子だった。

私も頑張って何をやっているのか理解しようとした。だが、テキストは渡されていない。ただペアの子の横に座っているだけだ。これでは一体何をやっているのかもわからない。

それでも理解しようとペアの子に質問しようとした。しかし、日本語で説明されてもすぐには理解することができる様子ではなかったので、質問することもできなかった。私は先生に当てられることもなく、発言する機会もなかったためただ授業が終わるのを待った。

正直、何のために来たのだろうと思ってしまった。

1日目の夜、明日の授業もこんな感じで進むのかと思うと憂鬱な気持ちになり、2日目はその日一日を乗り切るという当初とは違う目標に変わってしまっていた。

 

確かに現地の中華系の高校に通う生徒たちがどのような環境の中でどんなことを学んでいるのか、日本の高校との違いを知ることができた。それにペアの子とも仲良くなることができた。しかし、“体験”を通じた交流ができたとは言えないのではないか。

 

誤解を招かないように言うと、私はこの企画に対して決して不満があるわけではない。

高校以前にも何度か異文化を持つ人と交流した経験がある。しかし、やはりどれも音楽や遊び、食からお互いの文化を知ることを通じて交流を深めるものだった。

異なる文化を持つ生徒と同じ授業をいきなり受けること、2日間という短い期間であることに“体験”することの難しさがあると考える。

 

現在、パブリックディプロマシーについて学んでいる。

その中で、過去に“現地校体験”に参加し、様々な形で交流してきた私自身の経験を振り返ってみた。ここで感じたことを改めて言語化するなかで、何を目的にどのような形で交流するのか、そしてそのために準備すべきことを考えることがいかに重要であるか気づかされた。

 

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当時の写真がなかったのでプロジェクションマッピングされたマーライオンシンガポールのビル群。筆者が撮ったもの。

 

 

心の壁

 アイデンティティという言葉をよく耳にすることがあった。大学の授業でもちろん、自分と似ているまたは違うアイデンティティを持つ人とも散々関わってきた。その言葉を完璧に理解したわけではないが、自分なりに解釈することができたような気がしていた。そしてコンプレックスなく、その解釈の中で日本で10年間暮らしてきた。どこの出身ですかのような質問に対して、迷いもなく中国です、中国人ですっと答えることができたが、ベトナムラクホン大学で交流会で初めて躊躇した。

 

 「あなたは中国人ですか」という今まで何度も聞き慣れた質問だったが、「はい」を言うのを少しためらった。今までなっかた感覚に襲われた。なんで迷ったのだろう。自分は何を恐れていたのだろう。先日の観光地のツアーガイドさんの中国に対する微妙な嫌悪感を覚えているからかもしれない。それとも、日本の早稲田大学の一員として歓迎された私の正体を隠したかったのだろうか。日本人ではないことがその場の雰囲気を壊すのが怖かったかもしれない。あの時の少しの躊躇から恥ずかしさを感じた。まだ自分に素直に慣れないんだっと。恐怖感すら感じた。それまでの「私」を囲んで、守っていた壁が崩れ落ちた音が聞こえたようだ。

 

 そんなことを思う中、交流会は好調で続き、私を異質と扱われることなく、熱心に話を聞いてくれるベトナム人の学生たちがいた。が、やはり周りとは別の世界にいるような気がした。その時にふと考えた、マイノリティは他人と関係なく、自分での意識によって成り立つなんだっと。

 

第18のゴール「歴史を伝える責任」

5月末、欧州からあるニュースが届いた。


27日、フランスのマクロン大統領は訪問先のルワンダで、(謝罪はしなかったものの)1994年のルワンダ大虐殺に関するフランスの責任を認めた。
28日、ドイツ政府は20世紀初頭に当時の植民地ナミビアで犯した虐殺を正式に謝罪した。

 

 

歴史を清算し、見直すときが来ているのだろうか。

 

 

一方、東アジアは、いまだに歴史の傷を乗り越えることができていない。


6月4日。32年前の中国で、天安門事件が起きた日。だが、本土でこの話は「タブー」。歴史からは葬り去られている。つい最近まで自由の砦であった香港でさえ、国家安全維持法が施行されると、天安門事件の博物館は当面閉鎖され、30年以上続いた追悼集会は途絶えてしまった。


日韓をめぐっては、元徴用工問題や「慰安婦」問題が戦後70年以上たった現在でも、関係にひずみをもたらす火種を残している。


日本でも、近年「南京大虐殺はウソ」という主張や「ネトウヨ」の存在により、歴史認識にゆがみが生じていることは確かだ。かの安倍晋三氏でさえ、歴史教科書、「慰安婦」、南京事件問題に関し、否定的な立場から提言を行った「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」の事務局長を務めていたというのだから、日本の「正しい」歴史認識は危ぶまれていると言えるだろう。

 

 

真実としての「正しい」歴史は、どうして「正しく」伝わらないのか。

 

 

そんなことを思い、ふと昨年ルワンダの虐殺博物館で耳にしたことを思い出した。

 

 

ルワンダでは、虐殺のことを信じない子どももいる」

 

 

考えてみれば、紛争を知らない世代が、痛ましい事実を振り返ることはそう簡単ではない。ゴミ一つない綺麗に整備された車道、夜には光り輝くネオンのもとで生まれ育っていれば、普段の生活から「虐殺」の歴史を想像し読み解くことは不可能に近いだろう。

 

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学校の休み時間。並んで座っている子どもたちは井戸端会議でもしているのだろうか。

 

 

だからこそ、歴史教育や戦争・紛争教育には、当事者からの「正しい」歴史認識を教え、そのうえで「もしも」の想像力を働かせることが必要であるのではないかと考える。 


SDGs」という単語が先走りし叫ばれる現代社会。将来の世代への責任が問われる今、「正しい」歴史認識を伝えるという責任があってもいいのではないだろうか。その責任は、無論現代社会を構築している大人にある。

 

 

過去の「黒い」史実は、むしろ「正しく」語り継ぐことによって、未来の社会において二度と人類にとって悲しい歴史を生み出さないために、反省するための貴重な材料として活かすべきなのではないだろうか。

 

 

「コロナ禍」、「VUCAの時代」...複雑な現代社会は、日々不安が伴う。
不安が他者への攻撃を生み出し、大きな過ちを生み出さないために。
現代を生きる若者に、「過去から学ぶこと」は、託された宿命であるだろう。



遠くなる「海の向こう」

世界で新型コロナウイルスが猛威を振るった昨年以降、世界の国境は閉ざされた。現在ではワクチン接種が進む国々での行き来が再開しつつあるものの、依然として国境のハードルは高い状況は続く。コロナ下において、国境を越えての旅行は一気に現実味がなくなってしまった。当たり前のように街にあふれていた外国人観光客の姿は、今やない。

 

日本は四方を海で囲まれた「島国」だ。天然痘、麻疹、コレラスペイン風邪…。過去に海を越えて流入した流行病を挙げると、枚挙に暇がない。今回の新型コロナウイルスも、人々には海の向こうよりやってきた「禍」として認識されているのではないだろうか。

そんな文脈もあってか、変異ウイルスが発生する度に「水際対策を」との声が大きくなる。当然、疫学上(専門外なのでこの辺りにしておこう)この施策が間違っていると言いたい訳ではない。ここで取り上げたいのは一つ。「国境」がコロナ前より高く認識される世の中になった。そんな中、「海の向こう」(からやって来た)人々に対する見方が変わっていやしないだろうか、ということだ。

 

コロナ前、都内を歩けばインバウンド対応の外国語表記に溢れていた。家電量販店がいい例だ。日・英・中・韓、多種多様な言語で溢れた光景だ。そんな家電量販店も、薬局も、そのほかの場所も。何か「海の向こう」の息吹を感じにくくなっているように思えてならない。当然、インバウンド需要を当て込んだ外国語表記の整備なのだから、人々が「海の向こう」から訪れなくなった今や、その表記は用をなさないと言われても仕方がない。しかし、コロナ下の日本にも「海の向こう」からやって来た人々が多数いることを忘れてはならないだろう。

 

私の地元に近い群馬県大泉町日系ブラジル人コミュニティーがあることで有名なこの町の現状を調査したのは半年前。調査の一環で訪れた一軒の飲食店に、示唆的なものを見つけた。ポルトガル語表記の感染防止策周知ポスター。当然この町にも課題はあるのだが、「海の向こう」からやって来た人々の存在を認め、共に暮らすヒントがこのポスターに込められているように感じた瞬間だった。海の向こうから「やってくる」人々だけに目を向けるのではなく、「やって来た」人々と共に暮らすこと。これを意識できる社会でありたい。

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日系ブラジル人向けのコロナ対策ポスター。大泉町は日本で暮らす外国人に向けた情報発信がきちんと為されている自治体の一つだろう。

 

越境者の出会う街

アメリカのごはんは美味しくなかった。
いや、よく味がわからなかった、と表現するのが適切かもしれない。

 

私の出身高校には、1年生向けの課外プログラム「アメリカ研修」なるものが存在する。
例年、春休みを利用して有志20名前後がアメリカに渡り、ボストンでホームステイをしながら現地の語学学校に通ったあと、おまけに数日間だけニューヨークを観光する約2週間のプログラムだ。
参加者は2~3人ずついくつかのホームステイ先に割り振られ、ホストファミリーのもとで異文化の暮らしを体験することができる。

 

今だから言えることだが、私のホームステイ先は「ハズレ」だった。
ホストファミリーは一人暮らしの中年女性。
空港から移動してきた初日の夜、同じホームステイ先になった同級生と2人で挨拶すると、疲れた、眠いと言いながら簡単に家の中を案内してくれた。
そして、大きなスーツケースを持ち運ぶことにも、家の中を土足で歩くことにも慣れない私たちには目もくれないまま、

 

「ごはんは冷蔵庫に入っているものを温めていつでも自由に食べて。パンもヌテラもあるし、前に日本人が置いていったものもあるから」

 

とだけ言い残して、彼女は自室にこもってしまった。

 

彼女の言う「前に日本人が置いていったもの」は、お茶漬けだった。
包装の様子からして、日本人が自分で食べる用ではなくホストファミリーへの日本土産用らしかったため、未開封のまま放置されているのがなんだか切なかった。

 

その日本人が私たちの到着する数日前に去ったと言っていたことや、私たちの他にも2人の留学生が滞在していたことから推測するに、彼女は外国人のホームステイを好んで受け入れていたというよりは、単に受入れの報酬を生活の足しにするためにベッドと食べ物を提供していたのだろう。

 

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冷蔵庫のタッパーから取り出して盛り付けたごはん

 

ホームステイ中、毎度ごはんは冷蔵庫に入っているものを温めて、同級生と2人で食べた。
美味しいとは思わなかった。

 

食事のたびに、ボストンでの私は「外」の人なのだと感じた。
ホストファミリーと家族のように食卓を囲むことなく、ただ生きるために食べ物を提供してもらっている異邦人。
異文化の暮らしを体験するつもりが、日本でもアメリカでもない異次元の世界に飛び込んだような感覚になっていた。
お茶漬けを置いていった日本人は、どんな気持ちでこの食卓についていただろうか。


その家のセントラルヒーティングは、異文化の暮らしを体験したかった私を温めるには不十分だった。

ビジュアルのちから

 コロナ禍以前の歌舞伎座の幕見席には、外国人観光客とみられる人々がちらほらいた。幕見席とは、歌舞伎の好きな幕だけを1000円程度で見ることができる席だ。当日券のみの販売で、気軽に歌舞伎を楽しめる席として人気が高い。
 日本人であっても、歌舞伎の台詞を全てそのまま理解できる人は少ないだろう。独特の調子に古風な言葉。事前にあらすじを知っておかないと、物語を理解するのは厳しい。ましてや外国人観光客は、いくら字幕が用意されているとはいえ、それを楽しむことは難しいのでは、と考えた。


 そのとき、3年程前に、ウィーンの国立歌劇場で蝶々夫人を観劇したことを思い出した(当日たまたま取れたチケットだったため、あらすじを何も知らない状態だった)。舞台上では、和服に身を包んだ人々が、イタリア語の歌を歌い上げていた。知らない言語の歌を楽しむことは、字幕が用意されていても難しかった。けれども、言葉が分からなくても、舞台のビジュアルを楽しむことはできた。白い衣装に身を包んだ2人は結婚式の場面を示し、豪華な劇場で派手な衣装を纏う役者は、それだけで見る人の目を引く。途中から字幕を見るのをやめて、煌びやかな舞台をじっと見ていたことを思い出した。
 幕見席の外国人観光客も、あのときの私と同じだったのではないだろうか。異文化の人々とは言語の壁がある。しかし、歌舞伎やオペラのように特徴的なビジュアルは、彼らと共有することができる。言語は違えど同じ演劇を見ているのだ。受け取り方は人によって異なるかもしれないが、ビジュアルが与える強烈なインパクトには、言語の壁を破壊する勢いがある。


 江戸時代に誕生した歌舞伎が大衆文化として広く支持を得た理由は、そのビジュアルにあるのだろう。言語の壁は、識字率だったり、言語の種類だったり、時代によって移り変わっている。ひと目見て「歌舞伎」だと分かるビジュアルこそ、現代に至るまで歌舞伎が支持を集めている理由なのだろう。

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歌舞伎座


 

「新しい文化」を食べてみる

 韓国にはチャジャンミョン(漢字表記:炸醬麵、ハングル:짜장면)という麺料理がある。韓国でチャジャンミョンと言えば中華料理に分類され、どの中華料理屋さんに入っても必ずあるメニューと言ってもいいほど定番の中華料理として有名だ。このように韓国で広く中華料理としての認識が強いチャジャンミョンだが、実際には一般的に知られている中華料理のジャージャー麵とは区別される。

 

 

 チャジャンミョンは、チュンジャンと呼ばれる黒味噌を油で炒め、その油で野菜やお肉を炒めた後、片栗粉を水で溶いて絡め麺に乗せた料理だ。1883年に仁川港が開港されると、多くの山東半島の労働者たちが韓国にやって来て、彼らが故郷で食べていたジャージャー麵を夜食として韓国でも再現して食べるようになった。そんな中、仁川にチャイナタウンが成り立つと共に韓国に定住した華僑は、自分たちが故郷で食べていたジャージャー麵に野菜やお肉を入れ、韓国人の好みに合うものを作り上げた。油気を減らし、塩辛い味付けのジャージャー麵とは異なり甘い味付けをすることで、韓国人の口に合う現在のチャジャンミョンが誕生した。

 

 

 これと似た事例として、日本の長崎ちゃんぽんが挙げられる。明治中期、長崎市に現存する中華料理店の初代店主が、当時日本に訪れていた食べ盛りの中国人留学生に、安くて栄養たっぷりな料理をと考え作ったのがちゃんぽんの始まりであり、たちまち長崎の中華街に広まっていった。ちゃんぽんのルーツは福建省の湯肉絲麺(とんにいしいめん)である。湯肉絲麺は麺を主体として豚肉、椎茸、タケノコ、ネギなどを入れたあっさりとしたスープだが、中華料理店の店主がこれにボリュームをつけて濃いめのスープ、豊富な具、独自のコシのある麺を日本風にアレンジしたものが、現在日本人に多く好まれている長崎ちゃんぽんだ。

 

 

 韓国のチャジャンミョン、日本の長崎ちゃんぽん、この二つの料理に共通する点は、もとは他の国や文化の料理が、現地の人々の好みに合わせアレンジされ誕生した料理、つまりローカライズされた料理であるという点だ。わたしたちが普段何気なく食べているその料理も、ルーツをたどればわたしたちの好みに合わせてローカライズされ、新たに生まれたものかもしれない。交流が途絶えられたコロナ禍のいま、わたしたちは「食」を通じることで異文化交流を行うことができるのではないだろうか。文化と文化が出会い誕生した「新しい文化」を食べてみることで。

 

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仁川チャイナタウンで食べたチャジャンミョン

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チャジャンミョン博物館にある卒業式にチャジャンミョンを食べる人の模型