通〜ぶりズム

街を通ぶって歩く、通〜ぶりストたちによるブログです

越境のかたち

「あなたは何人(なにじん)なの?」

 

 

そう聞かれると、少し返答に困ってしまう。

私には、日本の血も、フィリピンの血も、スペインの血も流れているからだ。

 

だから私は少し考えて、「実は、クォーターなんです。」と答える。

しかし、そう打ち明けることには若干の抵抗や不安がある。

 

「ハーフ」「クォーター」と聞くと、何を想像するだろうか。

一般的に、ルーツを持つ国の言語を流暢に話すことができたり、特徴的な見た目をしていることを期待するのではないだろうか。

 

 

私がクォーターであることを打ち明けると、「タガログ語スペイン語は話せるの?」「向こうに住んでいたことはあるの?」とお決まりの質問をされる。「見た目じゃ全然わからないね」なんてことも言われたりする。

 

 

でも、私はタガログ語を話すことはできないし、ましてやスペインになんて行ったこともない。

 

人が「ハーフ」「クォーター」に期待するものを、自分は持ち合わせていない。

だから、なるべく日本の慣習に溶け込むようにして、クォーターであることを必要以上に隠すようにして生きてきた。

 

 

でも、最近気付いたことがある。同じようなジレンマを抱える人は、意外にもいるんだな、と。

 

私が思い切って打ち明けると、アルバイト先の上司や高校時代の友人も外国にルーツを持つことを打ち明けてくれた。彼ら、彼女らもまた、日本とルーツを持つ国の間で様々な葛藤を抱えていたようだ。大学に入って更に沢山のそのようなジレンマを抱える人々と出会うようになった。

 

「ハーフ」「クォーター」に対するイメージと、実態が乖離しているのかもしれない。

私も、私の中で無意識のうちに「クォーターはこうあるべき」とか、「理想のハーフ像」を形成して、自分を苦しめていたのかもしれない。

 

 

越境のかたちは、一つじゃない。

 

ルーツをもつ国の言語は話せないけれど、海を越えれば言葉の通わない家族がいる。帰る家もある。

「ふるさとの味」と言われたら、肉じゃがとアドボが思い浮かぶ。

 

そんな越境のかたちがあってもいいんじゃないかと、今は思う。

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第二の故郷から見た海

 

「アイデンティティ」とは

イサム・ノグチというアーティストを知っていますか?
現在東京都美術館にて「イサム・ノグチ 発見の道 Isamu Noguchi: Ways of Discovery」(2021年4月24日〜8月29日)という彼の展覧会が行われている。恥ずかしながら私は、友人にこの展覧会に誘われて初めて彼の名前を知った。

 

イサム・ノグチ(1904-1988)とは独自の彫刻哲学を打ち立てた20世紀を代表する芸術家である。日本人の父とアメリカ人の母との間に生まれ、東西の間でアイデンティティの葛藤に苦しんだ。当時は「ハーフ」の子供は珍しく、日本では風貌から好奇の目に晒された。一方、第二次世界大戦中のアメリカでは真珠湾攻撃を機に日本人への嫌悪が増出し、彼自身も日系人強制収容所に勾留されたという経験がある。生まれた時から日米両国で受け入れられず、戦争を機に両親の祖国が敵対国となってしまったのだ。
彼の作品はそうしたアイデンティティの葛藤の中で、様々な文化が融合されて制作されたものだ。世界大戦を経験したことによる平和に対する祈念の作品も作られている。

 

イサム・ノグチが生きていた時代から数十年経った。しかし、残念ながら現代でも人種差別は問題になっている。海外ではBlack Lives Matterやアジア人ヘイトが問題になっているし、日本でも在日外国人やイサム・ノグチと同じく両親の国籍が異なる「ハーフ」への偏見は残ったままだ。

 

「発見の道」と題されたこの展覧会。彼自身がアイデンティティの葛藤の中で発見した彫刻のあり方を辿りながら、現代に生きる私も背筋が伸びる思いがした。
人種や国籍から真っ先に語られるのではなく、「その人自身」がしっかり見つめられる世の中になることを願いたい。

 

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出典:東京都美術館https://www.tobikan.jp/exhibition/2021_isamunoguchi.html

 

交流のかたち

高校1年生の時、シンガポールにいた私は現地の中華系の高校に通う生徒と交流する機会があった。“現地校体験”といわれるこの国際交流企画は、希望をすれば参加することができる。シンガポールにいるからこそできることをやってみたいと思っていたことや友人から誘われたこともあり、私は学校の連休中に行われていたこの“現地校体験”に参加した。

 

この“現地校体験”は2日間行われる。事前に相手校の生徒とペアが組まれており、ペアの子と行動を共にする。ペアの子が受ける授業に参加し、昼食を一緒に食べるというように2日間学校にいる間はとにかくずっと一緒にいるのだ。

 

しかし、1日目の授業で私は少しがっかりすることになる。

授業のはじめに先生が「こんにちは。あの日本人の子ね。よろしくね。」と言うと、そのまま何事もなかったように授業が淡々と進んでいったのだ。

科目は数学。ホワイトボードには日本の高校1年生が習わないような難しい数式が書かれ始めた。ペアの子や教室にいた生徒たちは皆、授業についていくのに必死な様子だった。

私も頑張って何をやっているのか理解しようとした。だが、テキストは渡されていない。ただペアの子の横に座っているだけだ。これでは一体何をやっているのかもわからない。

それでも理解しようとペアの子に質問しようとした。しかし、日本語で説明されてもすぐには理解することができる様子ではなかったので、質問することもできなかった。私は先生に当てられることもなく、発言する機会もなかったためただ授業が終わるのを待った。

正直、何のために来たのだろうと思ってしまった。

1日目の夜、明日の授業もこんな感じで進むのかと思うと憂鬱な気持ちになり、2日目はその日一日を乗り切るという当初とは違う目標に変わってしまっていた。

 

確かに現地の中華系の高校に通う生徒たちがどのような環境の中でどんなことを学んでいるのか、日本の高校との違いを知ることができた。それにペアの子とも仲良くなることができた。しかし、“体験”を通じた交流ができたとは言えないのではないか。

 

誤解を招かないように言うと、私はこの企画に対して決して不満があるわけではない。

高校以前にも何度か異文化を持つ人と交流した経験がある。しかし、やはりどれも音楽や遊び、食からお互いの文化を知ることを通じて交流を深めるものだった。

異なる文化を持つ生徒と同じ授業をいきなり受けること、2日間という短い期間であることに“体験”することの難しさがあると考える。

 

現在、パブリックディプロマシーについて学んでいる。

その中で、過去に“現地校体験”に参加し、様々な形で交流してきた私自身の経験を振り返ってみた。ここで感じたことを改めて言語化するなかで、何を目的にどのような形で交流するのか、そしてそのために準備すべきことを考えることがいかに重要であるか気づかされた。

 

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当時の写真がなかったのでプロジェクションマッピングされたマーライオンシンガポールのビル群。筆者が撮ったもの。

 

 

心の壁

 アイデンティティという言葉をよく耳にすることがあった。大学の授業でもちろん、自分と似ているまたは違うアイデンティティを持つ人とも散々関わってきた。その言葉を完璧に理解したわけではないが、自分なりに解釈することができたような気がしていた。そしてコンプレックスなく、その解釈の中で日本で10年間暮らしてきた。どこの出身ですかのような質問に対して、迷いもなく中国です、中国人ですっと答えることができたが、ベトナムラクホン大学で交流会で初めて躊躇した。

 

 「あなたは中国人ですか」という今まで何度も聞き慣れた質問だったが、「はい」を言うのを少しためらった。今までなっかた感覚に襲われた。なんで迷ったのだろう。自分は何を恐れていたのだろう。先日の観光地のツアーガイドさんの中国に対する微妙な嫌悪感を覚えているからかもしれない。それとも、日本の早稲田大学の一員として歓迎された私の正体を隠したかったのだろうか。日本人ではないことがその場の雰囲気を壊すのが怖かったかもしれない。あの時の少しの躊躇から恥ずかしさを感じた。まだ自分に素直に慣れないんだっと。恐怖感すら感じた。それまでの「私」を囲んで、守っていた壁が崩れ落ちた音が聞こえたようだ。

 

 そんなことを思う中、交流会は好調で続き、私を異質と扱われることなく、熱心に話を聞いてくれるベトナム人の学生たちがいた。が、やはり周りとは別の世界にいるような気がした。その時にふと考えた、マイノリティは他人と関係なく、自分での意識によって成り立つなんだっと。

 

第18のゴール「歴史を伝える責任」

5月末、欧州からあるニュースが届いた。


27日、フランスのマクロン大統領は訪問先のルワンダで、(謝罪はしなかったものの)1994年のルワンダ大虐殺に関するフランスの責任を認めた。
28日、ドイツ政府は20世紀初頭に当時の植民地ナミビアで犯した虐殺を正式に謝罪した。

 

 

歴史を清算し、見直すときが来ているのだろうか。

 

 

一方、東アジアは、いまだに歴史の傷を乗り越えることができていない。


6月4日。32年前の中国で、天安門事件が起きた日。だが、本土でこの話は「タブー」。歴史からは葬り去られている。つい最近まで自由の砦であった香港でさえ、国家安全維持法が施行されると、天安門事件の博物館は当面閉鎖され、30年以上続いた追悼集会は途絶えてしまった。


日韓をめぐっては、元徴用工問題や「慰安婦」問題が戦後70年以上たった現在でも、関係にひずみをもたらす火種を残している。


日本でも、近年「南京大虐殺はウソ」という主張や「ネトウヨ」の存在により、歴史認識にゆがみが生じていることは確かだ。かの安倍晋三氏でさえ、歴史教科書、「慰安婦」、南京事件問題に関し、否定的な立場から提言を行った「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」の事務局長を務めていたというのだから、日本の「正しい」歴史認識は危ぶまれていると言えるだろう。

 

 

真実としての「正しい」歴史は、どうして「正しく」伝わらないのか。

 

 

そんなことを思い、ふと昨年ルワンダの虐殺博物館で耳にしたことを思い出した。

 

 

ルワンダでは、虐殺のことを信じない子どももいる」

 

 

考えてみれば、紛争を知らない世代が、痛ましい事実を振り返ることはそう簡単ではない。ゴミ一つない綺麗に整備された車道、夜には光り輝くネオンのもとで生まれ育っていれば、普段の生活から「虐殺」の歴史を想像し読み解くことは不可能に近いだろう。

 

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学校の休み時間。並んで座っている子どもたちは井戸端会議でもしているのだろうか。

 

 

だからこそ、歴史教育や戦争・紛争教育には、当事者からの「正しい」歴史認識を教え、そのうえで「もしも」の想像力を働かせることが必要であるのではないかと考える。 


SDGs」という単語が先走りし叫ばれる現代社会。将来の世代への責任が問われる今、「正しい」歴史認識を伝えるという責任があってもいいのではないだろうか。その責任は、無論現代社会を構築している大人にある。

 

 

過去の「黒い」史実は、むしろ「正しく」語り継ぐことによって、未来の社会において二度と人類にとって悲しい歴史を生み出さないために、反省するための貴重な材料として活かすべきなのではないだろうか。

 

 

「コロナ禍」、「VUCAの時代」...複雑な現代社会は、日々不安が伴う。
不安が他者への攻撃を生み出し、大きな過ちを生み出さないために。
現代を生きる若者に、「過去から学ぶこと」は、託された宿命であるだろう。



遠くなる「海の向こう」

世界で新型コロナウイルスが猛威を振るった昨年以降、世界の国境は閉ざされた。現在ではワクチン接種が進む国々での行き来が再開しつつあるものの、依然として国境のハードルは高い状況は続く。コロナ下において、国境を越えての旅行は一気に現実味がなくなってしまった。当たり前のように街にあふれていた外国人観光客の姿は、今やない。

 

日本は四方を海で囲まれた「島国」だ。天然痘、麻疹、コレラスペイン風邪…。過去に海を越えて流入した流行病を挙げると、枚挙に暇がない。今回の新型コロナウイルスも、人々には海の向こうよりやってきた「禍」として認識されているのではないだろうか。

そんな文脈もあってか、変異ウイルスが発生する度に「水際対策を」との声が大きくなる。当然、疫学上(専門外なのでこの辺りにしておこう)この施策が間違っていると言いたい訳ではない。ここで取り上げたいのは一つ。「国境」がコロナ前より高く認識される世の中になった。そんな中、「海の向こう」(からやって来た)人々に対する見方が変わっていやしないだろうか、ということだ。

 

コロナ前、都内を歩けばインバウンド対応の外国語表記に溢れていた。家電量販店がいい例だ。日・英・中・韓、多種多様な言語で溢れた光景だ。そんな家電量販店も、薬局も、そのほかの場所も。何か「海の向こう」の息吹を感じにくくなっているように思えてならない。当然、インバウンド需要を当て込んだ外国語表記の整備なのだから、人々が「海の向こう」から訪れなくなった今や、その表記は用をなさないと言われても仕方がない。しかし、コロナ下の日本にも「海の向こう」からやって来た人々が多数いることを忘れてはならないだろう。

 

私の地元に近い群馬県大泉町日系ブラジル人コミュニティーがあることで有名なこの町の現状を調査したのは半年前。調査の一環で訪れた一軒の飲食店に、示唆的なものを見つけた。ポルトガル語表記の感染防止策周知ポスター。当然この町にも課題はあるのだが、「海の向こう」からやって来た人々の存在を認め、共に暮らすヒントがこのポスターに込められているように感じた瞬間だった。海の向こうから「やってくる」人々だけに目を向けるのではなく、「やって来た」人々と共に暮らすこと。これを意識できる社会でありたい。

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日系ブラジル人向けのコロナ対策ポスター。大泉町は日本で暮らす外国人に向けた情報発信がきちんと為されている自治体の一つだろう。

 

越境者の出会う街

アメリカのごはんは美味しくなかった。
いや、よく味がわからなかった、と表現するのが適切かもしれない。

 

私の出身高校には、1年生向けの課外プログラム「アメリカ研修」なるものが存在する。
例年、春休みを利用して有志20名前後がアメリカに渡り、ボストンでホームステイをしながら現地の語学学校に通ったあと、おまけに数日間だけニューヨークを観光する約2週間のプログラムだ。
参加者は2~3人ずついくつかのホームステイ先に割り振られ、ホストファミリーのもとで異文化の暮らしを体験することができる。

 

今だから言えることだが、私のホームステイ先は「ハズレ」だった。
ホストファミリーは一人暮らしの中年女性。
空港から移動してきた初日の夜、同じホームステイ先になった同級生と2人で挨拶すると、疲れた、眠いと言いながら簡単に家の中を案内してくれた。
そして、大きなスーツケースを持ち運ぶことにも、家の中を土足で歩くことにも慣れない私たちには目もくれないまま、

 

「ごはんは冷蔵庫に入っているものを温めていつでも自由に食べて。パンもヌテラもあるし、前に日本人が置いていったものもあるから」

 

とだけ言い残して、彼女は自室にこもってしまった。

 

彼女の言う「前に日本人が置いていったもの」は、お茶漬けだった。
包装の様子からして、日本人が自分で食べる用ではなくホストファミリーへの日本土産用らしかったため、未開封のまま放置されているのがなんだか切なかった。

 

その日本人が私たちの到着する数日前に去ったと言っていたことや、私たちの他にも2人の留学生が滞在していたことから推測するに、彼女は外国人のホームステイを好んで受け入れていたというよりは、単に受入れの報酬を生活の足しにするためにベッドと食べ物を提供していたのだろう。

 

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冷蔵庫のタッパーから取り出して盛り付けたごはん

 

ホームステイ中、毎度ごはんは冷蔵庫に入っているものを温めて、同級生と2人で食べた。
美味しいとは思わなかった。

 

食事のたびに、ボストンでの私は「外」の人なのだと感じた。
ホストファミリーと家族のように食卓を囲むことなく、ただ生きるために食べ物を提供してもらっている異邦人。
異文化の暮らしを体験するつもりが、日本でもアメリカでもない異次元の世界に飛び込んだような感覚になっていた。
お茶漬けを置いていった日本人は、どんな気持ちでこの食卓についていただろうか。


その家のセントラルヒーティングは、異文化の暮らしを体験したかった私の心を温めるには不十分だった。